第五節 熱い男子、冷えた女子
十月の風は、王都にもすでに秋の匂いを混ぜ込みはじめていた。セトリアナ大河から吹き上がる、わずかに湿り気を帯びた涼風が、王立学園運動場の砂塵をさらりと撫でていく。
この日の武術実技授業は、全学年合同で行われていた。学年ごとに人数を揃えられない年もある――それが王立学園では珍しくない。そのため、運動場は学びの温度も力量の差も入り混じった、雑多でありながらも活気の絶えない場となる。もっとも、この全校合同の武術実技授業において、真剣な表情で鍛錬に臨むのは男子生徒がほとんど全てと言って遜色ない。
貴族社会では、武器を執るのは本来、家を守る男子の役目とされ、女子には礼儀作法や舞踏、魔法の修養が重んじられてきた。とりわけ王立学園では、女子生徒の多くが魔法を専攻し、武術は課程上の必修として最小限にとどめるのが常である。ゆえに、この時間の女子たちは形ばかりの型をこなし、心はすでに次の授業やお茶会の約束へと向かっている――そんな光景もまた、この場の風物詩であった。
もっとも、今年は例外があった。リュミエールとマリナ――二人とも、尊敬するマティルダ公爵夫人に近づくため、武術を疎かにするという選択肢は最初から存在しない。たとえ、手にするのが短剣であっても、それは飾りではなく自らを鍛えるための確かな武器だった。既に卒業しているが、ソフィア王女の代も武術に打ち込む女生徒がいた。武術教師は、その再来ほどでないことに胸を撫で下ろしていた。
アルフォンスは、その背景をよく知っていた。だからこそ、武術実技授業の時間はいつもリュミエールの相手を務める。彼女の小剣の構えを直し、模擬戦用の動きを確認する。呼吸の置き方、踏み込みの角度、視線の誘導――癖を知り尽くした手つきで、必要なことだけを告げ、余計なことは言わない。
「なんで、お前はいつもリュミエール嬢の相手ばかりして、きちんと授業を受けないんだ!」
刺すような声音が訓練場に割り込む。声の主は、三年生の一人だった。
アルフォンスは怪訝そうに眉を寄せる。
「授業は免除されています。リュミィの相手をしているのは、担当教師の許可を得ているからです」
「はぁ? 一年のくせに免除なんてありえないだろ!」
苛立ちと驚きがないまぜになった声が響く。その背後から、武術担当教師がゆっくりと歩み寄ってきた。
「授業免除に関する通知は、すでに掲示してあるぞ。……まさか、読んでいないのか?」
「そ、そんな……そもそも免除って?」
三年生が言葉を詰まらせると、武術教師は呆れ顔で肩を竦めた。
「異変の最前線で戦ってきた生徒を、学園の標準カリキュラムで扱おうとしたら、こちらの力量不足がはっきりした。いま再編を進めているが――正直、アルフォンスの実技指導は諦めた、というわけだ」
武術教師は淡々とそう告げると、ふと口角を上げてアルフォンスを見た。
「そうだな――アルフォンス、せっかくだ。希望者をまとめて相手してやれ。そこで何かを掴めるやつがいれば儲けものだ」
アルフォンスは軽く肩をすくめ、小さくため息を吐いてから頷く。
「分かりました。――まとめて、ですね」
あっという間に二十名の希望者が集まった。武術教師は前に出て、短くも鋭い注意を飛ばす。
「いいか。アルフォンスは速度特化に見えるが、そのまま突っ込めば何も得られんからな。小剣だからと侮るな――威力は並の剣、いや大剣並みだ。甘く見れば、あっさり剣を弾き飛ばされて終わるぞ」
どこまで声が届くか懐疑的ではあるが、武術教師は伝える。
「それから、本当の意味で攻撃が当たらないとはどういうことか。体で覚えてこい。それが今後の糧になる」
開始の合図が落ちた瞬間、訓練場の空気が一段沈み込んだ。
『まるで、暴風の中に放り込まれたみたいだ』
見学していた生徒の誰かが、そう零す。
アルフォンスの動きは、視線で追えたのはほんの一瞬だけだった。半数以上の挑戦者が、連携の形を作る前に戦線を離脱させられる。正面から立ち向かった者たちは、その勢いごと踏み砕かれたように崩れ落ちた。かろうじて連携を敷いた組も、攻撃が届かない。間合いを詰められるより早く、死角からの一撃で体勢を崩され、盾を構えた者は、その盾ごと弾き飛ばされる。
砂塵を巻き上げ、最後の一人が転がるまでに――三分もかからなかった。沈黙が落ちる訓練場で、武術教師が額を掻きながら低く呟く。
「……容赦ないな。――救護班、急げ!」
砂塵の舞う訓練場を、救護班の生徒と医務係が慌ただしく駆け回る。外れた兜を拾い、負傷者を支えて運び出す声が重なった。倒れた生徒の多くは意識こそあるものの、肩や腕、足を押さえてうめき声を漏らしている。
離れた場所で見学していたリュミエールは、その光景を静かに見つめていた。
「……本当に、容赦がないわね」
そう呟く声は、批判でも賞賛でもない。ただ、事実を受け止める響きだった。
隣のマリナが、息を呑むように小さく笑う。
「でも――あれが、アルフォンスなのよね。あの速さ、全然目で追えなかった」
マリナの視線は、戦い終えたばかりの少年に向けられていた。アルフォンスは、周囲のざわめきや賞賛の声を意に介さず、落ちた模擬剣を拾い集めていた。訓練場の隅で、それらを静かに束ねる仕草は、戦闘中の苛烈さとは不思議なほど対照的だ。
マリナは、「ちょっと、救護班のお手伝いに行ってきますね」とリュミエールに声を掛け救護所に向かい歩いていった。
武術教師がアルフォンスに歩み寄り声を掛ける。
「悪かったな、急な無茶振りを。おかげで、全員が得難い経験を持ち帰れるだろう」
アルフォンスは小さく頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。
先ほどは見物に回っていた三年生たちが、次々とアルフォンスのもとへ歩み寄ってきた。オリエンテーションで顔を合わせた面々――あの春に、何気ないやり取りを交わした仲間たちだ。今は実に晴れやかな表情をしている。
「いや〜、知らない連中に譲っちまったけど、やっぱ参加すりゃ良かったぜ。見てるだけで楽しくなった」
「例の新しい型、うちで披露したら家族に褒められたんだぞ」
「議論して、検証して、また議論して――あの繰り返しで鍛えたら、騎士団の内定まで出ちまった」
その熱量は、春の出会いから途切れることなく続き、今も息づいているらしい。あのとき偶然交わした言葉が、誰かの背を押す風となり、形を変えて今ここに吹いている。
「入り口は偶然でしたけど――続いているのは皆さんの熱意と、語り合える仲間があってこそです」
アルフォンスは穏やかな笑みを浮かべ、周囲を見渡した。
「この実技の時間も、そういう〈場〉になるよう仕掛けてみたらどうですか?」
その提案に、救護所から戻ってきたばかりの生徒たちも自然と輪に加わる。どう攻めれば届くのか。なぜ弾かれたのか。何を鍛えるべきか。議論が笑い声とともに交わされ、目は真剣で、空気は軽い。
武術教師が、にこやかにアルフォンスの肩を軽く叩いた。
「お前、ほんと人を乗せるのが上手いな。なんか、お前のこと〈暴風〉って言ってやつがいて、定着しそうな感じだっぞ」
そう言って笑い、武術教師もそのまま生徒たちの輪の中へ溶け込んでいく。
少し離れた場所では、女子生徒たちが集まり、小さな輪を作っていた。呆れ半分、面白がり半分の表情が並び、その中の一人が軽く笑みを浮かべる。
「私たちは武術はどうでもよろしいのです。魔法の鍛錬をしていますの。皆さまもいかが? けっこう楽しいですのよ」
運動場の空気が、ふっと和らいだ。その様子を見て、リュミエールが肩をすくめる。
「なんか、運動場の雰囲気が一気に柔らかくなったぞ」
そこへ、シグヴァルドとマリナが歩み寄ってくる。
「魔法の鍛錬をブリーフィングみたいに議論してる子たちを見かけたけれど――やっぱり仕掛け人はアルフォンスだったのね」
「いや、仕掛けたつもりはないよ」
アルフォンスは小さく息を吐き、空を仰いだ。
『……〈暴風〉か。僕からしてみたら、本家〈暴風〉は今ごろ実家に引きこもってる。俺じゃ、まだまだ――南風ってところかな』
誰に聞かれることもないその呟きは、秋の風に攫われ、訓練場のざわめきの中へ静かに溶けていった。




