第二節 王宮図書館、理は時間泥棒
九月に入った、王都――
真夏のような厳しい暑さは、すでに和らいでいた。セトリアナ大河から吹き渡る風にも、ほのかに秋の気配が混じりはじめる。街路には、学園の生徒たちが戻ってきた。色とりどりの制服や外套が並び、往来に活気を添える。露店の呼び声が響き、馬車の車輪が石畳を叩く音も増え、都は久方ぶりに華やいだ。
昨日は、説明だけで半日が過ぎた気がした。屋敷に戻るや否や、リュミエールとマリナが食いつくように質問を浴びせてきたのだ。
「ちょっと、どういうこと? 陛下だけじゃなくて両妃殿下までいたって本当?」
「しかも第二王女殿下のソフィア様まで……それって、かなり特別じゃない?」
その勢いに押されながら、アルフォンスはぽつぽつと答えていく。西方探索、大湿地帯の発見、異変では最前線で戦った話などしたことを伝えた。ソフィア王女から「リュミエールと婚約するのよね?」と聞かれたこと。さらに、シグヴァルドとマリナの婚約を羨ましがっていたことも。
「……ってわけで、まぁ、いろいろと濃い時間だった」
「いいなぁ。私も行きたかったわ」
「いや、あれは……平穏なお茶会とはちょっと違ったから」
「違ってもいいから行きたかったの」
リュミエールの拗ねたような声に、アルフォンスは苦笑するしかなかった。
ふと、シグヴァルドに尋ねる。
「……そういえば、どうして王家の方々はあんなに軽い感じで話してくれたんだ?」
「呪いだ」
「……えっ?」
それだけ言って、シグヴァルドは頑として口を閉ざした。
『そういうところは相変わらずで――ある意味、安心すらする』
翌朝、アルフォンスは一人で王宮図書館へ向かった。昨日と同じ専用回廊を抜け、王宮特有の静かな空気の中を進む。入館証を提示すると、ほどなくして図書館員が迎えに来た。
長い廊下を抜け、厳かな扉の前で足を止める。扉が開くと同時に、紙の香りと淡い魔力の気配がふわりと流れ出した。その向こうに広がっていたのは、フェルノート王国の知識の集積地だった。
受付で簡単な利用説明を受けたあと、アルフォンスは静かに口を開く。
「漠然としているのですが……瘴気に関して調べています。瘴気そのもの、影響や対処方法――そういった資料が集まっている書架があれば、ご案内いただけますか」
図書館員は一瞬だけ目を細め、通常は立ち入れぬ区画へとアルフォンスを案内した。
『たぶん研究者向けの扱いなんだろうな』
並び立つ書架の背表紙を眺め、アルフォンスはぽつりと呟く。
「吟味なんて無理だ――感で行くしかない」
そこから数時間、ひたすら本の山に没頭した。記録を追ううちに、瘴気を原因とする災害が過去にも繰り返し発生していた事実が見えてくる。だが、具体的な対処法の記述はほとんど見つからなかった。
「これは、極秘にしていたか、あるいは常識すぎて記録しなかったか……どっちだろう」
いずれにせよ、このままでは進展が薄い。そう判断し、一度受付へ戻る。
「お昼って、皆さんどうされてるんですか?」
「王宮の食堂を利用される方も多いですが、お弁当を持参して中庭で召し上がる方もいらっしゃいますよ。中庭は一般の方にも公開されていますし、快適です」
とはいえ、王宮内を無防備に歩くのは、アルフォンスにとってはだいぶリスクが高い。そう結論づけ、公爵邸へ戻ることにした。
ちょうど回廊の角を曲がろうとしたとき――「アル〜! 来てたんだね〜」
予想外に明るい声が、静かな王宮の廊下に響いた。
「……ソフィア様、ごきげんよう……で、いいのか?」
「いいよいいよ、挨拶なんて挨拶だって分かれば問題ないんだよ〜」
悪びれる様子もなく、第二王女殿下は当然のように隣へ並び歩く。
「これから、公爵邸に戻って昼食を取ろうと思っているんですが……」
「うん、マティルダ叔母様に会いに行こうと思ってたとこ〜。一緒に行こっか」
『なんて展開だ――』
公爵邸の門前に着くと、門番がソフィア王女の姿を認めて一瞬だけ固まった。そりゃそうだ。第二王女殿下がふらりと現れるなんて想定外だろう。だが、ソフィア王女はにっこり笑い、軽やかに手を振った。
「叔母様に会いに来ただけだよ〜」
「……うん、顔パスだよね。納得だ」
昼食の席は、いつもの面々にソフィア王女が加わり、ひときわ賑やかな雰囲気に包まれた。会話は自然と弾み、笑い声が絶えない。
食後、ラウンジではリュミエール、マリナ、マティルダ公爵夫人、そしてソフィア王女が集まり、楽しげに談笑を続けていた。やや暇を持て余したアルフォンスは、ソファーの背にもたれながら、隣にいたシグヴァルドへぽつりと声をかけた。
「……あの呪いって、やっぱり気になるんだけど」
シグヴァルドは、一瞬だけ視線を宙にさまよわせ、苦虫を噛み潰したような顔で短く答える。
「……血筋だ」
なんという、重くも投げやりなひとこと。小声で付け足すように、シグヴァルドは続けた。
「本家筋の王家は、だいたいああいう空気をまとってる。王都に住んでる連中は、もう慣れっこだ」
「……慣れるんだ」
「政務中は、ちゃんと真面目らしいけどな」
『らしい、というあたりに、妙な説得力がある』
午後、アルフォンスは再び王宮図書館へ足を運んだ。今度は〈瘴気〉から少し距離を置き、思いつくままに書架を巡る。背表紙を指先でなぞりながら歩くうち、ふと目を引いたのは――〈理と世界とその向こう〉。
なんとも挑発的で、妙に引きの強いタイトルだった。開いてみると、内容はとても学術的……とは言いがたかった。理にまつわる思索や妄想を、筆者が好き勝手に書き連ねたような一冊。だが、それがなぜか面白い。読み進めるほどに、時間がするすると溶けていく。午後の静けさの中、ページを繰る音だけが自分を包んだ。
拾い読みしていた妄想だらけの本は、確かに学術的ではなかった。だが、どこか癖になる妙な魅力を持っていた。
笑いながら読み進める中、ふと視線を止めさせられる一文があった。
『……つまり理って、人がどう認識するかに集約される?』
「本なのに疑問形か――」
アルフォンスは心の中で突っ込む。けれど、それは妙に心に引っかかる言葉だった。
軽く息を吐き、我に返る。今度は〈理〉に関連する別の本を数冊ピックアップし、机に積み上げて読み進めていく。
いま、アルフォンスが見ようとしている〈理〉の輪郭は、まだ霞の向こうにある。それでも、――ほんのわずかに、輪郭が滲み出してきたような気がした。




