第二節 狩猟の刻、森の調律
朝霧に包まれたミルド村の畑は、朝露をたっぷり含んだ土の匂いが立ち込めていた。柔らかな陽光が、まだ冷たい大地を優しく撫でるように差し込み、緑の葉を透かして淡い金色の光が揺れている。静かな村の朝はゆっくりと目を覚まし、風に乗ってどこか遠くの森のざわめきがかすかに聞こえてきた。
朝露に濡れた畑の土をそっと払いのけると、アルフォンスは鍬を静かに地に置いた。森へ向かう準備は整っている。だが、その前にひとつ、確かめたいことがあった。
朝食の席で、湯気の立つ味噌汁をすすりながら、彼は父ジルベールに問いかける。
「父さん、普段、間引きの狩りはどの辺を重点的に回っているの?」
ジルベールは箸を止め応える。
「村の東と北東だな。特に東は畑や家が近い。獣害が出たらまずいから、定期的に見回って、必要なら間引いている」
アルフォンスは静かに頷いた。
「最近、北西側を中心に探索しているけど、動物の気配が異常に濃いんだ。獣道も増えているし何度も遭遇している。放置すると、村に影響が出るかもしれない」
ジルベールの表情がわずかに険しくなる。
「そうか。村長に話を通してから、お前と一緒に北西側を調べよう。案内してくれ」
アルフォンスはすぐに支度を整え、午前のうちに父子は森の中へと足を踏み入れた。その空気はどこか張り詰めていた。木々の隙間を影が走り、唸り声の余韻が風に残る。
足跡、擦れた樹皮、押し分けられた草の痕。それらは確かに獣たちの活動域が広がっていることを示していた。ジルはしばらく無言で観察し、やがて足を止めて言った。
「多すぎるな。これでは、畑や家畜に被害が及ぶのも時間の問題だ」
深く考え込むジルベールの姿には、静かながらも明確な危機感が滲んでいた。午前いっぱいを使い慎重に調査を続けたあと、ジルベールは何かを確信したように森を出て、まっすぐ村長の家へと向かっていった。
――その日の夕方
村を挙げての方針が発表された。
北西の獣の数を減らし、森の均衡を取り戻すため、大規模な狩猟を実施する。獲れた獣は無駄にせず、肉や皮の加工も含めて村全体で協力して行うという取り決めだった。
その報せは瞬く間に村中へ広がり、広場には慌ただしい熱気が満ちていく。狩猟に参加する男たちが次々と集まり、矢の本数、罠の位置、狩場の分担を手際よく決めていく。年配の猟師たちは地図を囲み、言葉少なに、しかし真剣な視線を交わしていた。
緊張感が漂う中、別の場所では別の手が動いていた。女たちは干し竿の点検、解体作業の道具の準備、保存食用の樽洗いに忙しい。やるべきことは山積みだったが、誰一人、不満を口にする者はいなかった。
「これだけ獲れたら、保存食づくりも忙しくなるね」
「久々に燻製釜、全部使うことになりそうだよ」
子どもたちはそんな大人たちの動きに敏感に反応し、声を上げて駆け回っていた。
「肉祭りだーっ! 始まるぞーっ!」
それに応えるように、家々の戸が次々に開き、村人たちが顔を出す。大人たちは苦笑しながらも、どこか誇らしげな表情でその光景を見つめていた。
そして今回、アルフォンスもその狩猟に加わることになった。探索で培ってきた経験を生かす。それらすべてを、ただの修練ではなく〈守るための力〉として、いま試されようとしている。
『これからは、受け取るばかりじゃいけない。自分の力で、この場所を守らなきゃ』
アルフォンスの胸に、ゆるがぬ決意が宿っていた。
朝霧の残る広場に、村人たちが次々と集まっていた。手には槍や弓、鉈に投石具。肩には簡素な革の防具。今日のために選ばれた討伐隊の面々が、緊張と覚悟を胸に、最後の打ち合わせを交わしている。
「午前中で密度を落とす。一斉に北西側の獣を散らして、数を減らすのを優先する」
ジルベールの低く通る声が、広場に静かに響いた。
輸送班、解体班への指示が順に伝えられ、それぞれの班が短く、力強く返事を返す。アルフォンスも、その列の中にいた。腰には剣と投石袋。手の中にあるのは、震えではなく、静かな意志。この森で学んだこと、磨いた感覚が、今こそ生きるときだった。
合図とともに、村人たちは一斉に北西側の森へと突入する。
森が騒がしくなるのに時間はかからなかった。吠えるような獣の声。蹄が地を裂く音。木々の間を突進してきた猪に、三人がかりで槍を構える。鹿が逃げ走る先に矢が飛び、膝を折って倒れる。
アルフォンスは、自分に向かって突進してきた小型の牙獣に石をぶつけて脚を砕き、倒れたところを逆手に持った剣で喉元を突いた。息を整える間もなく、次の気配が迫る。
森は想像以上の混沌に包まれていた。小動物から中型の獣までが波のように押し寄せ、戦列を揺るがす。だが、村人たちは怯まなかった。声を交わし合い、互いの位置を確認しながら、一頭ずつ確実に仕留めていく。
「こりゃあ、多すぎるぞ!」
「こんなに潜んでたなんて聞いてねぇ!」
驚きと緊迫の中、負傷者は後方へと下がり、輸送班が仕留められた獣を次々と運び出す。村では、解体班が昼までに処理しきるため、手を休めることなく動いていた。
太陽が頭上に登るころ、討伐隊は一度広場へ戻り、干し肉や握り飯を囲んで小休止を取った。焚き火の周りでは互いの無事を確かめる声が飛び交い、短い時間の中で士気が再び高められていく。
「だいぶ散らせたな。午後は少人数での分担狩猟に切り替える」
ジルベールの判断のもと、午後からは各自が小隊に分かれて、再び森へ向かった。
アルフォンスも、風の気配を読みながら歩を進める。踏み跡の角度、土の沈み方、木のざわめき。すべてが獣の動きを語っていた。石を握りしめ、呼吸を整える。風に乗せて放った一投が、逃げる獣の脚を砕いた。すぐさま距離を詰め、剣を抜き放つ。その動きには、迷いも、無駄もなかった。
それは〈戦い〉というよりも、森の調律のようなものだった。ただ数を狩るのではなく、バランスを取り戻すための行為。森を知る者として、森に生きる者としての責任と技。
夕暮れが近づき、討伐隊は目標としていた獣の数に達し、大規模狩猟は無事終了した。
村へ戻ると、広場にはすでに山のような肉と皮が積まれていた。干し網や燻製棚はすぐに足りなくなり、新たな設備が次々と追加されていく。
――夕暮れ
香ばしい匂いが村じゅうを包んでいた。焚き火の上で肉が炙られ、「肉祭りだーっ!」と駆け回る子どもたちの歓声が響く。
大きく裂かれた肉にかぶりつく顔は、どれも満ち足りた笑顔だった。遊び疲れた子どもたちは、やがて親の腕の中で眠りへと落ちていく。
そんな賑わいの中で、ジルベールと村長がアルフォンスのもとを訪れた。
「北西側に、これほどまで獣が集まっておるとは、予想以上じゃったのぉ」
年配の村長は、静かながらも重みのある声で言葉を紡ぐ。
「今後は定期的に調査を入れるぞ。アル坊、お前も何か気づいたことがあれば、遠慮せず知らせるのじゃぞ」
その視線は真剣だった。アルフォンスはまっすぐにそれを受け止め、深く頷く。
「もちろんです。僕にできることがあるなら、なんでも」
――父や母のように
誰かのために、自分の力を使えるように。
焚き火の赤い炎に照らされたその背中は、まっすぐに伸びていた。
村の一員として、森の知を持つ者として。
アルフォンスの中で芽吹いた〈守る力〉が、確かにそこにあった。