第五節 境界の向こう、ささやかな後押し
乾燥工房を後にした一行は、アルフォンスの提案で一度宿へ戻った。
日が傾き始め、窓から射し込む橙の光がラウンジをやわらかく照らす。リュミエールがお茶の支度をしようと立ち上がったところで、マリナ伯爵令嬢がそっと手を伸ばして制した。
「リュミエール、実は最近お気に入りで持ってきたものがあるの」
そう言って、マリナ伯爵令嬢は荷物のひとつから小ぶりな箱を取り出した。涼やかな気配を放つそれに、リュミエールは目を留める。
「あら……冷却保管箱ですね」
マリナ伯爵令嬢は微笑み、箱の蓋を開けながら小さく笑みを含んだ声を漏らす。
「ふふふ、お気に入りはこの中にありますの」
やがて彼女が両手で大切そうに取り出したのは、透き通るようなガラスの器だった。淡い水色の差し色が施され、見慣れた器とは一線を画す、洒落た趣を放っている。
リュミエールはその器をじっと見つめ、「とても素敵だわ……」と呟いた。
「王都で見たことがありませんが、どちらで購入されたのです?」
マリナ伯爵令嬢は嬉しそうに微笑み、手の中の器を軽く揺らした。
「元々は帝国から流れてきた品で、『カラフェ』という水指の一種なの。辺境伯領に入って、それを我が家が取り寄せて送ってくれたのよ」
リュミエールとマリナ伯爵令嬢が仲良く紅茶を淹れ、冷却保管箱で冷やしている姿を、アルフォンスは少し考え込むような表情で見つめていた。その視線は、やがてカラフェへと移り、じっと凝らされる。
やがて配膳されたティーカップを手に、それぞれが腰を落ち着けたところで、アルフォンスが口を開いた。
「少し予定を見直そう。大湿地帯での滞在を三日から五日に延ばす。明日から向かい、十一日目にミルド村へ戻る。そこから二日滞在して、伯爵領都、公爵領都、そして王都へ。そんな流れで考えてる」
言葉と同時に、卓上の紙へ簡潔な日程を書き込んでいく。その筆先の確かさに、仲間たちの視線が集まった。
「大湿地帯の土壌を直接確認できる機会は、そう多くない。もし土壌の異変が原因なら、今のうちに比較材料を集めておきたいんだ」
「大湿地帯は薬草に良すぎる環境。ミルド村は良い環境、伯爵領都はごく普通。この差を見極めたい」
リュミエールの補足に、シグヴァルドが腕を組んで頷き、マリナ伯爵令嬢も真剣な眼差しで耳を傾ける。
「マリナには薬草の分布や気候、土地の気配を感じることに集中して欲しい。土壌調査には同行させない。調薬師としての視点をぶらさずに済むようにしたいから」
「ええ、わかりましたわ」
マリナ伯爵令嬢が小さく頷く。その仕草のあと、ふと疑問をこらえきれず口にした。
「ところで、以前から名前の出ているセレスタンさんって、どんな方なんですか?」
唐突な問いに、三人がそろって瞬きをする。短い沈黙ののち、リュミエールが少しばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「完全に説明を忘れてたわね。マリナ、ここで言うセレスタンさんって〈賢者〉セレスタン・ヴァリオールその人よ」
「け、賢者様……!?」
息を呑むマリナ伯爵令嬢。驚きで背筋が伸びる――。
その反応を横目に、リュミエールは簡潔に経緯を添え、シグヴァルドへ視線を送った。
「シグ、セレスタンさんと会ったことは?」
「ない。名は聞いているが、直接は一度も会ったことないな」
ぶっきらぼうに答えるシグヴァルド。彼が首を振ると、アルフォンスが引き取るように語り始める。
「セレスタンさんは、かつて王宮の要請で大湿地帯の土壌調査を行っていたことがある。だから、関係する資料があるとすれば本人の私蔵書庫か、王宮の保管庫。おそらく公爵家にある可能性は低い。正直、分の悪い賭けになる」
「妥当な判断だな。俺の親父ならニコニコしながら伯父さんに押し付けるだろう」
苦笑を浮かべながら、シグヴァルドが軽口を叩く。場が少し和む。
「王宮に顔を出して資料を探すのも手だけど、セレスタンさん本人に会えれば、それが一番早いんだよね」
アルフォンスが軽く笑いながら言うと、リュミエールが即座に眉を上げた。
「それ、楽できるかどうかの話じゃないと思うけど?」
声の端に呆れを滲ませる。
「ま、国王陛下から『今度、王宮に遊びにおいで』ってお誘いはもらってるし。入れないってことはないと思うよ?」
「……えっ?」
シグヴァルドが目を瞬き、まるで『初耳だが?』と言いたげに顔を向ける。
リュミエールは「あれ、言ってなかったっけ?」と小首を傾げ、マリナ伯爵令嬢は話の流れに追いつけず戸惑いを隠せない。胸の内では「国王陛下と直接――?」と驚きが渦巻いていた。
「シグ、ジークハルトさんやユリウスさんから何も聞いてないの?〈焔隼の翼〉の送別会をタウンハウスでやってるとき、お忍びで陛下が突撃してきた。だから挨拶はしてる」
「そんな面白そうな場面、俺もいたかった」
シグヴァルドがぼそりと呟くと、その場の空気がやわらぎ、全員が思わず笑いを漏らした。
「話が逸れたけど、資料があっても、現地で自分の目で確かめたい」
アルフォンスは肩を竦める。情報も経験も、結局は自分の手で掴まなければ意味がない。それは彼が調薬師としてずっと持ち続けてきた信条だった。
その夜、アルフォンスたちは翌日からの大湿地帯探索に備え、静かに支度を始めた。各自が装備や荷を点検し、部屋には小さな物音だけが響く。そんな折、控えめに扉がノックされた。
「……誰?」
アルフォンスが声をかけると、扉の向こうから「わたし」と明るい声が返ってくる。
扉を開けて招き入れると、リュミエールは当然のように部屋へ入り、手慣れた動きで茶を淹れはじめた。湯気の立つティーカップをアルフォンスの前に置き、自分も腰を下ろすと、ふぅと息をつく。
「このあと、落ち着いて話す時間があるか分からないから今のうちにね」
普段より低い声色は、軽快さの奥に思慮を滲ませていた。
「恐らく、公爵様はマリナをシグの婚約者候補として見ているんじゃないかしら」
その一言に、アルフォンスの手がぴたりと止まる。胸の奥で思わずざわめきが広がった。
「根拠は、公爵家の馬車にマリナを乗せて移動することを許可したこと。そしてシグの同行を即座に認めたこと。この二つだけでも十分だけど」
リュミエールは指を組み、柔らかな声音で続ける。
「マリナに婚約者がいる様子はないし、いたら単身同行なんてまず許されないわ。公爵様がそれを知らないはずもない。つまり――」
少し間を置き、静かに結論を告げた。
「マリナを、シグの婚約者に据えるつもりなんだと思う」
アルフォンスは黙って相槌を打つ。推測は大胆だが、根拠は確かだった。
「私はマリナ、好きよ。控えめだけど芯があって、シグとはたぶん相性がいい。だから私は賛成派」
彼女は目を細め、柔らかく笑う。
「で、もしアルも賛成派なら最初の三日は別行動ってどうかしら?」
アルフォンスは「別行動?」と、少し首を傾げてリュミエールを見つめる。
「ええ。私たちは〈土壌調査〉に集中する。マリナとシグには〈薬草の調査〉を任せる。名目はシグがマリナの護衛。自然でしょう? もちろん騎士や侍女は付くけれどね」
さらりとした提案に見えて、その言葉には確かな配慮が込められていた。
「きっとね、あの二人と私たちは長い付き合いになると思うの。楽しみだわ」
湯が冷めぬうちに茶を飲み干し、――リュミエールは静かに立ち上がり「前向きに考えてね」と微笑み、音もなく部屋を後にした。




