第三節 公爵領での滞在、伯爵領への道
マクシミリアン公爵邸での滞在は、穏やかな三日間となった。
その間、アルフォンスとシグヴァルドは幾度も模擬戦を重ね、剣を交えて互いを磨き合った。間合いを測り、癖を見抜き合う一振りごとに、戦場で肩を並べた時の信頼と、鍛錬に臨む者同士の誇りがにじむ。
リュミエールとマリナ伯爵令嬢は調薬の実践に励み、時折、アルフォンスやシグヴァルドも加わって騎乗訓練を行った。草原を四人で並んで駆け抜ける時間は短くとも、そこには平穏と友情の色が濃く刻まれていた。
この三日間、魔道具師グラナート・ストーンハルトの姿はなく、戻るのは二週間後とのことだった。今回は顔を合わせる機会はなかったが、王都に戻る折には再会できるだろう。
ゼルガード公爵からは特別な指示も言葉もなく、ただ静かに、それぞれが日々を積み重ねる様子を見守る空気が、邸内をゆるやかに満たしていた。
出立の日、空は雲ひとつなく澄みわたり、陽光が石畳をやわらかく照らしていた。四人は旅装に身を包み、騎乗の姿で馬を進める。護衛には、熟練の騎士五名と、騎乗移動が可能な侍女二名が随行した。
途中、宿場町で一泊を挟み、翌日の午後にはマリーニュ伯爵領の領都へと入った。
最初に向かったのは伯爵邸だった。
先触れにより到着は伝えられており、アラン伯爵は儀礼的な挨拶を交わしたのち、滞在の許可を与えた。その場には、アルフォンスとリュミエールも伯爵家側の立場で並び立っていた。
滞在許可という名の形式的な手続きを終え、空気はわずかに和らいだものの、礼節の枠は崩れない。誰もがそれぞれの立ち位置を保ちながら場を見守っていた。
アラン伯爵は、やや芝居がかった仕草で両手を組み、ほんの少し目を細めてアルフォンスに向き合った。
「アルフォンス、こうした歓待や客人との付き合いは、これからますます増えるだろう。覚悟して、学びなさい」
姿勢を正し「はい」と答えるアルフォンスに、アラン伯爵は続けた。
「お前は、私の次に会った貴族があのマクシミリアン公。これは異例だ。ゆえに、貴族社会との距離感に歪みがある。もっとも、リュミエールが傍らにいれば、大きな問題は起きまい」
「だが、自分の目と体で経験し、対処の仕方を知ることも学びのうちだ。忘れるな」
「はい。肝に銘じます」
そのやり取りを、シグヴァルドとマリナ伯爵令嬢は少し離れた位置から見守っていた。あたかも控えの者同士、互いに一歩距離を置いたような顔をして、しかし視線が合えば通じるものがある。
「熱血貴族道、講座開幕って感じだな」
控えめに漏らしたシグヴァルドの言葉に、マリナ伯爵令嬢は口元を手で覆い、小さく笑った。
「アルフォンス、真剣に耳を傾けているからこそ、なおさら絵になりますわね。それに――あれはリュミエールの伯父様としての歓迎ではなくて?」
「わかってる。だから言ってるんだ。あの距離の詰め方――外堀、埋まってんなって」
「ふふっ。たぶん、アルフォンスなら言うでしょうね……『外堀なんて、最初からないよ?』って」
そこへ、背後に気配がひとつ――。
音もなく立ち位置を変えたリュミエールが、わずかに首を傾げながら二人を見やる。
彼女は最初から、この『芝居がかった離脱』が何のためかを察していた。小さく肩をすくめ、リュミエールは「公爵様のイタズラ、多分これよね」と、独り言のように呟く。
ちらりとシグヴァルドに目をやり、静かに言葉を重ねた。
「シグ、堀が埋まりかけてるの――あなたもよ、たぶん」
それきり、彼女は何も言わず元の立ち位置に戻った。その瞳は、誰にも気づかれぬまま、アルフォンスへと向けられ続けていた。静かなやり取りの中に、アラン伯爵なりの信頼と、ささやかな後押しが垣間見えた。
その日の夜は、伯爵邸で湯浴みと晩餐が用意され、シグヴァルドとマリナ伯爵令嬢には上位貴族の客人にふさわしい歓待がなされた。
アルフォンスとリュミエールは礼儀の観点から、そのまま歓待する側にまわり穏やかな立ち振る舞いで場を整える。
今回、リュミエールの帰省に合わせ、男爵邸の離れには新たに小さな工房が設けられていた。本来は彼女が使う予定の場所だが、このときはマリナ伯爵令嬢の調薬研究のために開かれることになった。四方の窓から柔らかな夕陽が差し込み、木製の作業台と整然と並んだ薬草瓶の上に、静かな光が落ちる。
アルフォンスの母であるティアーヌも呼ばれ、四人による素材と環境の検証が始まる。空気は澄み、微かな香草の匂いが鼻をくすぐる。誰もが集中しており、言葉は必要最小限に抑えられ、手先の動きと視線で意思が交わされる。
マリナ伯爵令嬢は慎重な手つきでポーションを調薬する。瓶の中に淡い青が広がり、やがて液体はかすかに光を帯びた。微かな蒸気が立ち上るのを見つめながら、アルフォンスは手元の瓶を揺らさずに光の具合を確認する。
「やっぱり、マリナの調薬は自信がまだ足りない感じだけど、効能はちゃんと出てるわよね? アル」
肩越しにリュミエールが問う。アルフォンスは頷き、細かく瓶を回して液体の状態を確かめた。
「問題ないね。これは、原因を探るのに骨が折れそうだ」
「少なくとも、調薬の技術そのものは申し分ないわね」
ティアーヌは手帳をめくり、落ち着いた声で続ける。
「作業環境や素材の精度、それに土地の性質も視野に入れるべきかもしれない」
マリナ伯爵令嬢は少し不安げに言葉を添えた。
「素材はわたくしも確認しましたし、専属の調薬師が管理していました。腐敗や変質はありませんわ」
リュミエールはふっと笑みを浮かべ、マリナ伯爵令嬢の背を軽く叩く。
「大丈夫、マリナ。あなたを責める理由なんて一つもないわ」
議論は慎重に進められ、やがて一応の結論が導かれた。失敗の原因は調薬技術ではなく、素材や土地、水質といった環境的要因にある可能性が高い。作業台の上の瓶が並び直され、四人の集中は次の検証へと移った。
検証が進む中、リュミエールの提案でミルド村へ先触れが送られ、四人の宿泊準備が手配された。窓の外には、暮れかけた空の色が工房の奥まで柔らかく届き、今日一日の静かな充実を物語っていた。
――数日後、旅装を整えたアルフォンスたちは馬を駆り、西方の大湿地帯の入口にあたるミルド村へ向かう。
近年、訪れる者の増加に伴い、村には宿泊施設が整えられていた。伯爵家の主導で建てられた貴族向けの宿もあり、今回四人が泊まるのはそこだった。
到着は夕刻。湯浴みを済ませ、夕食を終えた四人はラウンジに集まる。室内は穏やかで、外の柔らかな光が差し込み、夏の長い日がゆっくりと終わろうとしていた。
アルフォンスは窓の外に視線をやり、静かに呟く。
「子どもの頃、駆け回っていたこの村で、こうして貴族向けの宿にいるなんて、不思議な気分だよ」
リュミエールはアルフォンスの隣に座り、肩を少し寄せながら微笑んだ。
「駆け回って、そして村を飛び出した。その先にあったのは、誰も予想しなかった流れ。私たちは、きっと気まぐれな風に押されてきたのね」
そのままアルフォンスを見つめ、頬にうっすらと色を差しながら静かに言葉を重ねる。
「アルを私に届けてくれた風に感謝してるわ」
「そうだね。僕もその風に、心からお礼を言いたい」
二人のやりとりを見守るように、シグヴァルドは椅子にもたれ、片眉を上げて「んんん……」と、静かに咳払いをした。わざとらしい音ではあるが、空気にさざ波を立てる。
アルフォンスは苦笑しながら話を切り替える。
「明日はミレイ婆さんのところに行くよ。セレスタンさんも認める、素晴らしい師匠だから。まあ、口うるさいけどね」
マリナ伯爵令嬢は少し離れた位置から、二人をちらりと見つめて微笑む。声はなくとも、四人の間に漂う静かな親密さを感じ取っていた。
予定は多く、緊張する場面もあるだろう――。
それでも、こうして皆で同じ時を過ごし、互いの顔を見ながら言葉を交わす今は、何よりも温かかった。
夏の夜風が窓辺をすり抜け、草の香りを運んでくる――それはまるで、新たな旅の始まりをそっと告げる合図のようだった。




