第一節 森のざわめき、受け継ぐ力
木々の葉がわずかに色づきはじめた森には、差し込む光にもどこかやわらかな色が染まりはじめていた。風が枝葉を揺らすたび、混じる音はかすかに乾いていて、季節が夏の背を見送りながら、静かに秋へと歩を進めていることを告げていた。
そんな森を歩くアルフォンスの足取りには、いつの間にか確かな重みが宿りはじめていた。父ジルベールから単独での探索を許されて以来、彼は一人でミルド村の西側の森を巡るようになっていたのだ。
薬草や魔石が〈そこにある〉と感じる瞬間は確かな証拠ではなく、どこか曖昧な直感に近いものだった。けれど、風の流れ、木々のざわめき、地面のわずかな匂い、些細な違和感を察したとき、不思議と高確率で何かを見つけ出すことができた。
「おやおや……また見慣れん薬草を拾うてきおったのぉ」
調薬店の奥で、ミレイ婆さんが目を細めながら指先で茎を撫でた。その節には薄緑の若葉がついており、切り口には淡い紫の滲みが残っていた。
「ふむ……こりゃ〈キルムラ〉の若葉じゃないかのぉ。十年……いや、それ以上ぶりに目にするわい。ようまぁ見つけてきおったもんじゃ」
「なんとなく、あの辺にありそうな気がして」
曖昧な言葉に、ミレイ婆さんは湯呑を持ち上げてふうっと息をつき、しばらく黙り込んだ。
「〈風〉属性を操る使い手いうもんにはのぉ、空気の流れやら匂いやら……それにな、人や獣の気配を察する術があるんじゃよ。ティアはのぉ、昔からそいつぁめっぽう得意でな」
「母さんが?」
「そうさのぉ……ティアは〈風〉属性と〈水〉属性の使い手じゃろう? 昔、冒険者をしとった頃はのぉ、たまに依頼でこっちまで足を運んで、この森でもずいぶん腕を振るっておったわい。」
軽く息をつき、手元の薬草を撫でるようにして、さらに口を開く。
「薬草の見分けもな、葉にちぃと指先を触れた途端に、すぐ分かってしまうんじゃ。あれはのぉ、ちと真似できん才覚じゃったわい」
その言葉に、アルフォンスの胸に淡い熱が灯った。母ティアーヌの感知。父ジルベールの勘。もしかすると自分は、その両方を継いでいるかもしれない。
『なんだか、少し誇らしいな』
風の中に潜む微細な気配を感じ取るように、アルフォンスは草を見つけ、魔石を探し出す。目に映る前に分かる。それはすでに、〈自分の力〉として根付き始めていた。
その日も、彼は数種の珍しい薬草と小粒の魔石を持ち帰っていた。見つけた場所は簡単な地図に記し、群生地を記録しながら森の全体像を少しずつ塗り替えていく。村の周囲は、静かに、確かにアルフォンスの知識と記録によって姿を変えつつあった。
――そんなある日
村の入り口から子供たちの歓声が上がった。
「行商人だー! 行商人が来たぞーっ!」
広場は久々の賑わいに包まれた。屋台には衣類や香油、陶器、武具や道具が並び、子どもたちは木剣を振り回し、大人たちはその背を苦笑いで見送っていた。アルフォンスも人波を縫って広場へと向かい、見慣れた荷車の前に立つ。
「ガルドおじさん、久しぶり」
「お、アル坊じゃないかい。今日もまた、珍しいもんでも見つけたのかね?」
「うん。少しだけど、魔石を」
包みを広げると、青銀に赤の芯を宿す小さな魔石が顔をのぞかせた。ガルドは目を細め、感心したように唸る。
「おお、こりゃ見事な発色だな。村じゃ滅多に見られん色じゃぞ。それに芯が赤だなんて……よぉ、ええとこ掘ったもんだわ」
「なんとなく、そこにあるような気がして」
「まったく、面白ぇ奴だなぁ、お前さんは」
そう言いながら、ガルドは荷の中を探り始め、手に取った一冊の書を差し出す。
「そうそう、あの時渡した《錬金術基礎概論》の姉妹本らしいやつ、ちょうど手に入ったんだわ。ほれ、見てみなや」
灰色の地味な装丁。金の小さな文字で〈魔法陣基礎概論〉と記されていた。
「買う!絶対買うよ!著者きっと同じ人だ!」
「そう来ると思って、ちゃんと取っといたんだわ」
--その晩
アルフォンスは机に本を広げ、見入っていた。
精緻な魔法陣。導線、力の流れ、属性の交差点。幾何学のように整った図が、頭の中で《錬金術基礎概論》の記述と結びついていく。魔法陣を模写する手は、調薬で培った集中と感覚をなぞるように動いていた。
『本物の錬成陣を、自分の手で描きたい』
風に誘われるように薬草を見つけ、魔石を拾い、知識を積み重ねてきた日々。その延長線上に自ら描く術があると彼は信じはじめていた。母譲りの感知、父譲りの勘、そして自分の手。アルフォンスは気づかぬうちに、それらを自らの術へと変え始めていたのだった。
父ジルベールの畑仕事を手伝い終えたアルフォンスは、昼食を早々に済ませ、採集袋を肩に掛けて森へと向かう。未踏の地は、まだ森の奥に幾つも残されている。一歩踏み出すたびに、新たな知識の扉を叩いているような感覚が胸に広がった。
森は静かだった。けれど、それはただの沈黙ではない。湿った土の匂い。獣が残した樹皮の擦れ跡。風に揺れる葉の、かすかな音。それらすべてが、森という巨大な生き物の、静かな呼吸のようだった。
「……これは」
苔むした根元に、小さく群生する薬草の葉が顔を覗かせていた。アルフォンスはしゃがみ込み、指先でそっと葉を撫でる。しっとりとした質感と、ふわりと漂う甘い香り。
「群生地、間違いないな」
慎重に数枚の葉を摘み取り、採集袋に収める。その少し先。岩陰の窪みで、青みを帯びた輝きがひっそりと光を返していた。
魔石――
拾い上げると、ひやりと冷たい感触が指に伝わる。それはまるで、この森の力が凝縮されたような結晶だった。
「薬草だけじゃない、魔石もここにあったか」
またしても、〈ありそうな気がする〉という感覚が的中していた。
『〈風〉属性を操る使い手いうもんにはのぉ、目に見えん気配を読むんじゃよ』
ミレイ婆さんの言葉が蘇る。〈風〉属性の使い手は、空気の流れや気配の微細な変化を感じ取る感覚があるという。言葉にはしにくいが、肌が先に反応し、身体が動くような直感。それは、母ティアーヌがかつて駆使していた力のひとつでもあった。
「自分にも、あの力が芽生えている?」
誇らしさと、少しの緊張が胸をよぎる。けど、幸運な発見ばかりが続くわけではない。ここ最近、森で出会う獣の気配が明らかに増えている。
「また、いるな」
遠く、木立の影にちらりと動く大きな影。狩りを目的とするものではないが、にらみを利かせ、こちらの動きを見ている。威嚇で追い払うしかない場面も、日増しに増えてきていた。
森の均衡が、どこかでわずかに揺らいでいるような違和感が、確かな警告のように背筋を撫でていった。
「このままじゃ、いつか破綻するかも」
日が傾きはじめる頃、採集袋は薬草と魔石でずっしりと重たくなっていた。アルフォンスは村へと急ぎ戻り、井戸の水で身体を拭い、夕食までのひとときを、もう一つの修練にあてる。
〈錬金術基礎概論〉
〈魔法陣基礎概論〉
まだ、自らの〈魔力〉を扱うことは叶わない。
祝福の儀――
創世の女神が定めた祝福の掟。創世の女神は、魔力暴走から子どもたちを守るため魔力を封じた。魔力は
十歳の春に受ける〈祝福の儀〉で解放される。
けれど、アルフォンスは、魔法陣を知り、線の意味を読み解き、組み合わせの意図を探る。それが、今の自分にもできることだった。
「いつか、自分だけの錬成陣を描けるようになりたい。きっと役に立つ魔法陣があるはずだ」
集中したまなざしで模写を続ける。導線、力の収束点、属性の相関。線の一つひとつに、確かな意味がある。それらを丹念に指先でなぞり、形として、心に焼きつけていく。
――薬草を探す感性
――魔石を見つける勘
――図形を読み描く目
そのすべてが、少しずつ力となって、アルフォンスの中に根を下ろしはじめていた。彼の探求は、戦うためでも、名声を求めてでもない。知ること。創ること。そして、使えるようになること。
その日々の歩みはまだ小さな光に過ぎない――
けれど、それは確かに、彼の内側で灯り、小さくも確かな軌跡を描きはじめていた。