第五節 訪れた転機、再び王都へ
マリーニュ伯爵領都――
雪解けの水が石畳を濡らし、街路樹の枝先には新芽がわずかに色を帯びはじめている。
異変で荒廃した北部の村々から、復興のために訪れた人々が行き交い、街道には荷馬車の列が途切れることなく続いていた。
広場には木材や麻袋を積んだ荷車が並び、鍛冶屋の槌音と商人の呼び声が交じり合う。
朝の澄んだ空気に、焼き立てのパンや温かなスープの香りが漂い、吐く息はまだ白い。
だが人々の足取りは、冬の重さを脱ぎ捨てたように軽く、どこか希望の色を帯びていた。
アルフォンスとリュミエールは、公爵領での慌ただしい日々を終え、再びマリーニュ伯爵邸に戻っていた。
育成学校の入学を控えてはいたが、その前に与えられたのは、しばしの静穏。澄み切った冬の空気が領都を包み、ふたりは落ち着いた日常の中に身を置いていた。
午前は調薬室での作業が日課になっていた。
アルフォンスが錬金術で水薬を精製し、リュミエールがそこに魔力を封入する。
封入は繊細な集中を要するが、ふたりは試行錯誤を重ねながら、それを楽しんでいた。
「アル、これ……ちょっと入れすぎたかも。魔力、偏ってる?」
瓶を差し出すリュミエールの額には、わずかに汗が滲んでいる。
「うん、少し強すぎたね。でもすぐ直せるよ。濾過して上澄みを別の瓶に移して、それから三層構造で密度を安定させてみようか」
「うん、やってみる!」
小さなやりとりのなかにも、互いを信頼している空気が漂う。リュミエールが疑問を口にする。
「すべて、錬金術で作れないの?」
錬金術で全工程を賄うことも可能ではあったが、アルフォンスは首を振った。
「できなくはないけど、品質を上げるのは難しい。魔力って本当に繊細だから、最後の封入は手でやった方がいい」
「そっか。でも、だからこそ意味があるのかもね」
ふたりの作業は、小さな研究室のような温かさを帯びていた。
昼下がりになれば、庭園のベンチでハーブティーを飲むのが習慣だ。
リュミエールが持ってくる焼き菓子は、料理長が彼女の好みに合わせて特別に用意したもの。
香ばしい甘さと、冬の日差しの温もり。それが、ふたりにとって穏やかな午後の合図だった。
そんなある日、騎乗訓練から戻ったアラン伯爵が、庭先のふたりのもとへと姿を現した。
「リュミエール、最近は乗馬を怠っておると聞いたぞ。鍛錬は続けねばならん」
「ごめんなさい、伯父様」
アラン伯爵の視線がアルフォンスに移る。
「アルフォンスはどうだ。公爵領への移動で多少は慣れただろう?」
「はい。あくまで移動程度ですが、一応は」
アラン伯爵は顎に手を当て、ゆっくりと言葉を選んだ。
「それなら、これを機に本格的に鍛錬を始めよ。実はな、育成学校の件でマクシミリアン公に相談したのだが――育成学校では明らかにお前たちの力を伸ばすには足りぬと」
アルフォンスとリュミエールは、互いに小さく視線を交わす。アラン伯爵の口調には、穏やかさの奥に確かな危機感があった。
「返答は曖昧だったが、いつでも騎乗移動できるよう、馬上での感覚は鍛えておくべきだ」
こうして、ふたりの騎乗訓練が再び始まった。
雪の降る日も馬場は整えられ、リュミエールはすぐに感覚を取り戻す。アルフォンスも彼女を追い、日に日に手綱さばきが板についた。
「寒いけど、風を切るとやっぱり気持ちいいわね」
「うん。寒さ対策、ちょっと考えてみるよ」
数日後、アルフォンスは掌に収まる小さな魔導具を差し出した。
「防寒用に作ってみた。少し魔力を通せば、温風が出るんだ」
「……あったかい! ありがとう、アル!」
リュミエールは馬上で身を寄せ、その温もりを確かめる。そんな穏やかな日々が、当然のように続くと思っていた。
その日までは――。
急ぎの呼び出しが、ふたりを応接間へ導いた。アラン伯爵はすでに腰掛け、眉間に刻まれた皺が深い影を落としている。
「二人に伝えねばならんことがある。やはりというべきか、育成学校への入学は中止となった」
「どういうことですか?」
「マクシミリアン公より連絡があった。お前たちは王立学園へ入学することとなった」
リュミエールが息を呑む。
「王立……でも、それって」
「アルフォンスの入学はマクシミリアン公が後ろ盾となり、形式上問題ない形に整えられた。国王陛下も裁可されたそうだ。準備はすでに整い、迎えの騎士が急ぎ向かっている」
事態の急展開に、ふたりは言葉を失う。
「育成学校の教材や制服は――」
「すべて不要だ。今は時間が惜しい。荷をまとめ、明日、早朝に出立せよ。移動は騎乗となる」
アラン伯爵は深く息を吸い、ゆっくりと告げた。
「これは運命ではない。選ばれた結果だ。覚悟を持て。良き未来を切り拓くための覚悟だ」
その言葉を胸に刻み、アルフォンスとリュミエールは互いを見つめ、静かに頷いた。新たな扉が、音を立てて開かれようとしていた。
伯爵領を発って二日――。
雪解けの匂いを含んだ風が、馬の鬣を揺らしていた。長旅の疲れが足取りににじみ始めた頃、遠くに石造りの高い門と、その背後にそびえる城郭が姿を現す。
マクシミリアン公爵領都。春の陽射しは穏やかでも、吹き抜ける風はまだ冬の名残を含んでいる。
馬を並べて進むアルフォンスとリュミエールは、時折顔を見合わせ、微笑みを交わしていた。
「アル、見て。山の稜線が白くて綺麗」
「本当だ。伯爵領と違って、空気が澄んでる。春なのに、冬がまだ少し残ってるみたいだ」
冷たい風がリュミエールの頬をかすめ、彼女は小さく肩をすくめる。
「防寒用の魔道具で寒くないのは助かるわ」
「作っておいて良かった。ただ、耐久性の確認ができてないから、少しでも寒くなったら言ってね。予備も作ってあるから」
そんな何気ないやり取りも、長旅の疲れを和らげる。
やがて公爵邸の門をくぐると、整列した数名の騎士が出迎え、その奥にはゼルガード公爵と、マティルダ公爵夫人が並んで立っていた。
「待っていたぞ、アルフォンス、リュミエール嬢」
鎧こそ纏っていないが、ゼルガード公爵の立ち姿には騎士を思わせる威厳があった。
マティルダ公爵夫人は落ち着いた微笑みを浮かべ、柔らかな声をかける。
「長旅でお疲れでしょう。今夜はゆっくりお休みなさい」
ゼルガード公爵は続けて、明日の予定を告げた。
「王都へは明日、馬で向かう。護衛は騎士五名、騎乗できる侍女が三名だ。少々目立つだろうが……」
言葉をそこで切り、声を低くする。
「本来、こういう移動の方が性に合っているのだが、なかなか機会がなくてね。今回は――まあ、都合がよかったということにしておこうか」
わざとらしく目を伏せた笑みに、リュミエールは小首をかしげ、アルフォンスはその裏を読み取ろうとした。
しかしゼルガード公爵はそれ以上語らず、肩をすくめるだけだった。
夕刻、侍女が湯浴みの支度を整え、リュミエールが先に案内されていく。残されたアルフォンスに、ゼルガード公爵が声をかけた。
「必要な手配はすべて王都のシグヴァルドに任せてある。安心して休め」
その一言に、旅の緊張がふっと解けた。
晩餐は豪奢でありながらも家庭的な温かさを帯び、公爵夫妻とともに、二人は伯爵領で過ごした冬の出来事を語った。
「アラン伯爵様が、雪の中で鹿を見つけたとき、本当に目を輝かせていて――」
「ええ、ふふ……そのまま追いかけようとするので、みなで止めたんですわ」
夫人は楽しげに目を細め、公爵も喉を鳴らして笑う。
「アラン伯爵は、雪と獣には目がないからな」
その夜は、久しぶりの団欒の空気に包まれ、静かに更けていった。
――翌日。
マクシミリアン公爵夫妻一行が街道を進むと、人々の視線が一斉に注がれた。
貴族が馬で移動する光景は珍しくないが、〈王国の盾〉と呼ばれる公爵夫妻が騎士五名を従え、堂々と進む姿は、まるで軍の巡察のような威容を放っていた。
道行く商人は足を止め、街の人たちは顔を見合わせ、その意味を探ろうとする。
王都に着くと一行はまっすぐ公爵邸へ向い馬を進める。
邸内の敷地に入ると玄関先に立つ青年が、いち早くアルフォンスを見つけ、手を振った。
「アル、久しぶりだな!」「シグ!」
二人は駆け寄り、自然に肩を叩き合う。
「旅はどうだった? マリーニュ伯爵領、冬は相変わらず厳しかったか?」
「うん。でも、その分、静かで落ち着くよ。シグは変わらず元気そうだね」
「まあな。アルとリュミエール嬢がいないと用意できない物がいくつかある。明日、一緒に店を回ろうぜ」
「助かるよ。頼りにしてる」
夕刻、公爵家の食卓には長男ジークハルトと次男ユリウスも揃った。最初こそ格式ばった挨拶だったが、すぐに賑やかな笑い声が飛び交う。
「聞いたぞ、アル! 防衛戦で活躍したって話し、王都でも噂になってるぞ。俺たち、パーティ仲間で勝手に祝杯あげたくらいだ」
軽やかな口調のユリウスが、杯を傾けながら笑みを向ける。
「恐縮です。でも、判断を誤ってリュミィを危険に晒したんです。それが、悔しくて」
一瞬、食卓が静まる。だが隣のリュミエールが柔らかく笑い、まっすぐアルフォンスを見る。
「アル。私は自分の意志で、あなたと並んでいたの。それを忘れないでね」
その言葉に、アルフォンスは驚き、そして深く頷いた。
「うん、ありがとう」
「ははっ、いいねぇ青春だ」
ユリウスが笑いながら兄に視線を送る。
「兄さん、近いうちにまた酒の肴が増えそうだぞ」
「あまりからかうな、ユリウス」
ジークハルトが眉をひそめつつも微笑み、和やかな笑いが広がる。
その食卓には、戦いや責務から一歩離れた、確かな家族の温もりが満ちていた。




