第四節 戦姫の矜持、凱旋の風
城塞町〈レンベルク〉の石壁が震えるほどの咆哮が、大地を揺らした。森の奥の瘴気が渦を巻き、巨大な塊となって膨れ上がっていく。
やがて、その中心に異形の瘴気核が姿を現した。
「……あれが、中心か」
あまりに巨大な存在に、空気までもが歪む。圧倒的な気配に、騎士たちは息を呑み、誰もが言葉を失っていた。
「アル! リュミエール! 下がれ陣形を――!」
シグヴァルドが声を張る。しかし、その呼びかけよりも早く、ふたりの姿は前へと駆け出していた。
唖然とするシグヴァルドの横に、ひとつの影が並ぶ。
「――ずいぶん、いい顔になったじゃない」
紅の軍装に紅槍を構えたマティルダが、そこに立っていた――戦姫の名に相応しい気迫と風格が、周囲の空気を塗り潰していく。
「今は、誰の出番かしら?」
問いかけに、シグヴァルドは言葉を詰まらせ、その沈黙を断ち切るように――マティルダの声が響いた。
「子供たちに任せきったら、〈王国の盾〉たる公爵家騎士団の名折れぞ!」
力強く天に向かい振り上げた紅槍の穂先が、瘴気を切り裂りさき煌めきを撒き散らす。
「動ける者は残敵を掃討せよ! 健在の者は我に続け! 盾の騎士団の底力、見せてやれ!」
「――最後の、総攻撃だ!」
その一喝が、沈みかけていた戦場の心に火を点けた。槍を握る者、剣を構える者、皆が立ち上がり戦姫の背を追う。
――アルフォンスは風の魔石を握り、リュミエールの胸には紅の紋章が淡く輝く。
「行くぞ、リュミィ」「ええ……絶対、帰るために!」
ふたりは駆けた。瘴気の渦の中心へ――そこはまさに、地獄だった。
瘴気が意思を持つかのように絡みつき、魔物たちは途切れることなく湧き上がる。アルフォンスの風が斬り裂き、リュミエールの炎が焼き払う。
声を重ね、動きを読み、瞬きにも満たぬ判断で命をつなぎとめた。
「こっち、開けるぞ!」「任せて――〈焔嵐〉!」
爆ぜる炎が渦を巻き、数体の魔物を吹き飛ばす。だが、それでも瘴気核へ届かない。
「――下がれ、子供たち!」
怒声と共に斜め上から紅蓮の影が舞い降りた。紅槍を構えたマティルダが、凛とした声を放つ。
「未来を切り拓くのは若いあなたたちの役目――けれど、今はまだ大人たちに任せていい時なのよ!」
その言葉は雷鳴のように心へ響く。
紅槍が閃き、紅の軌跡が核へと突き刺さった。
同時にリュミエールの炎が奔り、アルフォンスの風がその勢いを増幅させる。
轟音。閃光。――そして訪れる静寂。
瘴気が音もなく霧散し、空気の色が戻っていく。
周囲を見渡せば、数人の騎士たちが盾を構え、アルフォンスとリュミエールの背を守って立っていた。
その時、ようやく気がつく。自分たちは、前しか見ていなかったこと。その背を、仲間たちが守り続けてくれていたことに。味方を信じ、背を見せることになったとしても盾として守り通す気概があった。
「……あはは。リュミィ――守るって、こういうことかもしれないね」
肩が震えた。敵を薙ぎ払うことだけが、守ることじゃなかったのだ。〈王国の盾〉という言葉の意味を実感として理解した感覚がある。盾とは壮絶な覚悟を持つことを意味していた。
「……未熟だな、俺」
呟きに、リュミエールは穏やかに微笑む。
「でも、気づけたなら――もう違うわ」
アルフォンスはそっと彼女の手を取った。
「リュミィ。これからも並んで歩いてくれる?」
「ええ。最初からそのつもりよ」
ふたりは並んで立ち上がる。優しい風が、頬を撫でていった――。
異変が終息して数日後――。
異変の鎮圧とともに、マティルダ率いる部隊は帰還の途についた。領都が遠くに見えたその時――。
「……あれは?」
シグヴァルドが目を細める。門の外、街道の両脇に人々が集まっていた。次の瞬間、領都全体が揺れるほどの大歓声が爆発する。
「おかえりなさいませ! ご無事で!」
「戦姫さま! 本当にありがとうございます!」
旗が揺れ、花びらが舞う。その中に、よくポーションの納品帰りに見かけた子供たちの姿もあった。
「アル兄だ!アル兄が帰ってきた!」
アルフォンスは思わず足を止める。笑顔で手を振る人々。涙をこぼして深く頭を下げる老婆。無言で胸に拳を当てる青年。
ああ――。
この気持ち、今まで分かってなかったんだな。
ただ、友のために走った。
ただ、自分にできることをしただけだった――。
その行動が――誰かの希望となり、涙となり、感謝となっていることに。
『自分のためにしたことが、他者にとっては大きな意味を持つ』
今なら少しだけ、その意味が分かる気がする。そのことに思い至らなかったのはまだまだ未熟だから。
それでも、――前より少しは、前に進めた。
領都は街をあげて祝宴となった。帰ることができなかった者も多い、それでも人々は生きていかなければならない。祝宴はそのまま鎮魂のための祈りの場でもあった。誰もが、今ここに居ない者に感謝を捧げ明日を生きていくことを誓う。
公爵邸の庭園も多くの騎士たちが祝宴をしていた。想いは街中と同様、ここに居ない仲間たちの鎮魂と、生き残ったことに意味を持たせるための覚悟を新たにする場である。
アルフォンスとリュミエールも祝宴に参加し、多くの騎士たちに声を掛けられ多くの交流を行った。
「いや、あの〈炎爆〉は凄かった! そこに風魔法が混ざり込んで周囲を吹き飛ばす様は背筋が凍えたが、あれが戦線を立て直すきっかけになった。ほんとうにありがとう」
騎士たちの心から言葉を聞き、『やってきたことは間違ってなかった』と、二人は心に留めた。ただ、アルフォンスはやはり『最後の突撃はリュミィを危険に晒した』と心の隅に棘のように残った。
祝勝の宴が終わり、夜の庭園に静けさが戻る――。
月明かりを背に、アルフォンスはバルコニーに立っていた。隣にはリュミエールが静かに佇んでいた。
「……リュミィ」
「なあに?」
「帰ろう。僕たちの家に。家族に会いに」
その声に、リュミエールはそっと微笑む。
「ええ、一緒に帰りましょう。わたしたちの家に」
夜風がふたりの間を優しく通り抜ける――それは戦の終わりを告げる風。そして、旅路の続きを照らす、希望の風だった。
2025/10/29 加筆、再推敲をしました。




