閑話 悔みの過去、噂の決意
冷え切った空気が街を包み込む季節、フェルノート王国の王都は、冬の社交シーズンを迎えていた。石畳の道には霜が降り、陽射しは柔らかく照らす。
通りでは人々が厚手のマントに身を包み、商人の声や鈴の音に耳を澄ませながら、年の終わりを楽しんでいた。子どもたちは広場で雪を蹴って走り、角の吟遊詩人が軽やかに歌を響かせる。
馬車の中で、少女は窓の霜を指先でこすった。通りを行き交う人々や賑やかな音も、彼女にとってはどこか煩わしい。肩をすくめ、視線をそらすように窓の外を眺める――小さな苛立ちが、顔の端にひそかに表れていた。
少女が小さく頬をふくらませていた――。
年の頃は五つほど。
白金の髪は冬陽を受けて柔らかく輝く。細い光がふわりと揺れるたび、まるで雪の粉が舞うかのようだった。深い水色の瞳は幼さを残しつつ、澄んだ湖のように静かで、見る者の心を吸い込むような透明感を帯びている。小さな肩をすくめる仕草が、無垢な愛らしさをそっと添えていた。
「セラリア伯母様、どうしてお茶会に行かなくてはならないのですか? 午後は乗馬の予定でしたのに……。可愛いリトルが、わたくしを待っておりますわ」
セラリア伯爵夫人は、いつものことと軽く受け流しながら答える。
「エリシアが体調良くないのよ。リュミエールが名代で行くしかないでしょ」
少女の頬が、ふしゅ〜と萎んだ。
「そうでしたわ、お母様の名代を務めなければなりませんでしたの。このところお加減の良いお母様を見て、わたくし嬉しかったのに……大丈夫でしょうか」
セラリア伯爵夫人は萎れた姪の頭を優しく撫でた。
「エリシアは身体は弱いけど、ただそれだけよ。大丈夫、王都が急に冷え込んだから、体がびっくりしているだけ」
そんなやり取りのうちに、馬車は貴族街をゆるやかに抜け、やがてコルヴァン子爵家の門をくぐった。冬枯れの庭を横切り、玄関前の石畳に停まる。
馬車が止まるや、従者が足早に回り込み、優雅な所作で扉を押し開く。恭しく差し伸べられた掌に、セラリア伯爵夫人は軽く指先を触れさせ、ゆるやかに立ち上がるように降り立った。裾さばきも乱さず、静かに石畳を踏む。
セラリア伯爵夫人は振り向き、馬車の中へ手を差し入れる。
「お手をお借りしますわ」
指先が触れた瞬間、手袋越しに伝わる確かな温もり。リュミエール男爵令嬢は自然と身を委ね、背筋をすっと伸ばした。軽やかな足取りで外の光の中へと歩み出し、心の奥で小さな緊張を感じながらも、表情は落ち着いていた。
リヴィアーナ・コルヴァン子爵夫人が柔らかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてきた。
「マリーニュ伯爵夫人、本日はお越しいただき誠にありがとうございます」
セラリア伯爵夫人も微笑み返し、ゆったりとした所作で礼をしながら答える。
「コルヴァン子爵夫人、お招きいただき光栄です。申し訳ありませんが、本日はエリシアが体調を崩し、やむなく欠席いたします。代わりに姪のリュミエールが出席させていただきます」
リュミエール男爵令嬢は柔らかなシルクの裾を軽く摘み、小さく控えめなカーテシをした。肩の力を少し抜きながら、心の中で深呼吸をする。
「マリーニュ男爵家の三女、リュミエールと申します。初めてお目にかかりますが、このようにご挨拶できますことを、大変嬉しく存じます」
小さく控えめにお辞儀をし、声にはまだ幼さが残るが、目はしっかりと相手の目を見ていた。
リヴィアーナ子爵夫人は微笑みを崩さず、優雅に一歩前へ出て応えた。
「ご丁寧なご挨拶をありがとう。私はコルヴァン子爵家のリヴィアーナと申しますわ。とても可愛らしく、聡明なご様子でいらっしゃいますね。これからもどうぞよろしくお願いいたします」
そのまま裾を翻し、先導の姿勢で歩き出す。
「さあ、ご一緒にどうぞ。会場までご案内いたしますわ」
セラリアが軽く礼をし、リュミエールの手をそっと取りながら歩き出す。廊下の大理石はひんやりと足裏に伝わり、遠くに響く使用人の足音や、柔らかな日差しが壁を淡く照らしていた。
リヴィアーナ子爵夫人は優雅な歩調を保ちつつ、柔らかな声で話しかける。
「リュミエールさんは、お母様のご代理でいらっしゃるのですね。初めてお目にかかれて光栄ですわ」
リュミエールは小さく肩を引き、軽く頷きながら答えた。
「はい。母が体調を崩しておりまして、本日は母の名代にて参りました」
リヴィアーナ子爵夫人はにこりと微笑み、ふたりに目を向ける。その視線は暖かく、廊下の空気も自然と和らぐようだった。
「さすがに、マリーニュ男爵夫人のお嬢様、お顔立ちも品がございますわ。お母様もお元気になられることでしょう」
三人は静かに邸宅の廊下を進む。壁には絵画や調度品が並び、柔らかな光が吹き抜けの窓から差し込み、床の大理石に淡く反射していた。
会場の扉の前にたどり着くと、リヴィアーナ子爵夫人は扉を開き、落ち着いた声で丁寧に声をかける。
「皆様、こちらがマリーニュ伯爵家のセラリア夫人、そしてその姪であり男爵家名代のリュミエール様でございます。どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
セラリアが軽く頭を下げ、続いてリュミエールも静かに一礼した。微かな緊張が背中を通り抜け、目を伏せながらも心を整える。
お茶会は、温かな光と穏やかな空気の中で、静かに和やかに進んでいった――。
いくつかの話題が過ぎ去った後、エリザベート男爵夫人は少し身を前に傾け、声のトーンを落として話し始めた。
「最近、王都でポーションの品薄が続いていると聞きましたわ。何だか、五年前のあの悪夢が再び訪れるのではと、不安になりますの」
クリス男爵夫人は一瞬視線を下に落とし、額に軽く手を当てるようにして答えた。
「ええ、あの流行り病の時期は、本当に辛かったわ。多くのお年寄りや妊婦、子供たちが命を落とし、街の空気までもが重く沈んでいたわ」
オデット男爵夫人は唇を軽く噛み、慎重に言葉を選ぶように目を伏せてから、静かに付け加えた。
「今のところは、まだその兆候は見えませんけれど、備えは怠れませんわね。ポーションの供給が滞るのは、確かに気がかりです」
その時、マリーニュ伯爵夫人が椅子に背を正し、軽く手を膝の上で組みながら口を開いた。
「五年前、伯爵領もかなり混乱しました。ポーションの供給地としても心苦しい状況でした」
セラリア伯爵夫人はそっとリュミエール男爵令嬢の方へ目をやり、柔らかい微笑を浮かべつつ続けた。
「エリシア、リュミエールは難を逃れました。それでも、やはり伯爵領で多くの方が亡くなりました」
リヴィアーナ子爵夫人は静かに周囲を見渡し、落ち着いた声で皆の顔を確認するように言った。
「王宮も状況を注視しています。予算編成は整い、医療陣も準備を進めていると聞きます。しかし、噂は早く広まりますから、我々も気を引き締めねばなりません」
エリザベート男爵夫人は肩を少し前に出し、真剣な眼差しで皆に語りかける。
「もしまたあのような事態が起これば、誰もが助かりたいと願うでしょう。今のうちに情報を集めて、できる限りの手を打たねば」
クリス男爵夫人は軽く頷き、口元に力を込めるようにして応じた。
「そうね。私たち夫人たちも、社交界で耳にしたことを見極め、必要なら警鐘を鳴らす役目があるわ」
オデット男爵夫人も肩を落とさず、静かに頷いて答えた。
「決して過剰に恐れるのではなく、冷静な判断と協力が何より大切。私たちの情報網が役に立つ時かもしれません」
リヴィアーナ子爵夫人は微笑みを柔らかく崩し、ゆっくりと視線を巡らせながら締めくくった。
「そうですね。日常を守りつつ、互いに支え合いましょう。噂が過ぎて不安が広がらぬよう、我々が冷静な声で導いていかねばなりません」
静かに考えていたリュミエール男爵令嬢は、ふとセラリア伯爵夫人に向き直り、静かな声で尋ねた。
「伯母様、そのような事がありましたの?」
セラリア伯爵夫人は少し遠い目をしながら答えた。
「ええ、皆の傷が深くて、あの頃の話はなかなか口にできなかったの。だからリュミエールは知らなかったのね」
リュミエール男爵令嬢は言葉を受け止め、考え込むように目を伏せた。
『街では多くの調薬師が毎日ポーションを作っている。それでもまだ足りないのかしら……。わたしに、何かできることはあるのかしら――』
お茶会は進み、夫人たちはマリーニュ伯爵領の話しや、隣接するマクシミリアン公爵領の話しに耳を傾ける。
和やかな空気のまま、お茶会は閉会を迎えた――。
帰路の馬車の中、柔らかな揺れに合わせて布の座席がかすかにきしむ。セラリア伯爵夫人はリュミエールに優しい目を向け、静かに語りかけた。
「あの時、多くの調薬師たちが自分の力不足を嘆いていたの。でも、そんなことはなかったのよ。皆、持てる力を精一杯尽くしたの。だからこそ、誰も調薬師たちを責めることはなかったの」
言葉の端に、わずかに寂しげな影が揺れる。窓の外に傾きかけた夕陽が差し込み、二人の影を馬車の木製の床に長く伸ばしていた。
「マリーニュ領にはまだまだポーションを生み出せる土壌があるの。でも調薬師の犠牲を強いて増産してはいけないの。分かるかしら?」
リュミエールは小さく息を整え、背筋を伸ばして力強く頷いた。窓越しに流れる秋の景色を見つめながらも、その目はセラリア伯爵夫人の目を真っ直ぐ捉えていた。
「犠牲を強いるのは間違っていますわ」
セラリア伯爵夫人は柔らかく微笑み、そっとリュミエールの頭を撫でる。その手の温もりに、リュミエールは安心と覚悟を同時に感じた。馬車の揺れが心地よく、二人の間に静かな空気が流れる。
マリーニュ家が求め探すポーションの増産。叶うのは数年後、――王国の転機となる入口でリュミエールも思わぬ形で立ち会うことになる。
2025/10/03 加筆、再推敲をしました。
お茶会参加者リスト
主催:リヴィアーナ・コルヴァン子爵夫人
エリザベート・シャルモン男爵夫人
クリス・ヴァルデン男爵夫人
オデット・ベルモン男爵夫人
招待客
セラリア・マリーニュ伯爵夫人
エリシア・マリーニュ男爵夫人(欠席)
リュミエール・マリーニュ男爵令嬢(エリシアの名代)
フェルノート王国 マリーニュ伯爵領
領都:ヴァレオル
フェルノート王国北西部、マクシミリアン公爵領の西隣に広がる平坦な土地を有する領地。領都〈ヴァレオル〉は薬草の集積地として知られ、調薬や治療技術が盛んな地域でもある。北部には通常の森が広がっているが、そのさらに奥は魔の森へと連なっており、マリーニュ伯爵領は〈魔の森〉防衛の一翼を担っている 堅実かつ実直な武門の家柄で、王家からの信任も厚く、北方防衛における信頼の厚い拠点のひとつとなっている。




