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風の小道と小さな剣  作者: うにまる
第九章 森の異変、隣に立つ二人
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第二節 力の行使、並び立つ決意

 朝の空気が、どこかざわめいていた。領都(ヴァレオル)の市場では、季節の変わり目らしい喧噪が続いている。だが、アルフォンスの胸の内は晴れなかった。


 陽が傾くにつれ、空気の冷たさが日に日に増すこの季節。本来なら、公爵領(マクシミリアン)北部の山岳地帯にある湖は、すでに氷の帳をまとっているはずだ。


 けれど、公爵領から届いた報せは、本来あるべき常識を覆すものだった。


「凍らない?」


 凍結すべき湖、〈セルグラン湖〉――標高の高い地にあり、寒気の訪れが早いこの時期には、例年なら完全に氷結している。


 それが、今年はまだ水面を晒したまま、しかも周囲には瘴気に耐性を持つとされる花々が咲いているという。


 異変を告げたのは、公爵領北部の防衛拠点となる城塞町〈レンベルク〉からの緊急連絡だった。


 魔の森の縁に位置し、かつて王国の境界線でもあったその城塞町に常駐する警備部隊の魔力測定器が、数日にわたり異常な反応を示しているという。


 アルフォンスは机上の薬草束に視線を落とし、指先にかすかな震えを覚えた。


「シグ、大丈夫だろうか」


 現地へ調査隊の名代として向かったのは、他ならぬシグヴァルド。アルフォンスの親友であり、公爵家の三男だ。


 帰郷の折、運悪くこの異変が伝わり、執事であり騎士のルドワンと共に調査隊に名代として同行することになったと聞く。


 その知らせを受けて以来、重苦しい不安が胸の奥に張り付いて離れない。


「私も、何かできればいいのですけれど」


 隣で記録帳を広げていたリュミエールが、小さく息をつく。淡い水色の瞳は、書き込まれた呪文構成式をなぞっているが、思考は明らかに遠くにあった。


 ふたりとも、公爵領の北部についてはほとんど知らない。ましてや瘴気という現象についても、学び始めたばかりの身だ。


「何か、動かないといけない気がする」


 アルフォンスが絞るように言うと、リュミエールは静かに頷いた。


 わからないことばかりだ。瘴気とは何か、魔力の暴走とはどういうことか、この地で何が起ころうとしているのか。


 けれど、シグヴァルドが危険の中にいるという事実は変わらない。目の前にある理不尽に、誰かが向き合わなければならない。


 アルフォンスは手元の試作魔法陣の図面に視線を戻した。自分にできることは、小さな一歩に過ぎないかもしれない。


『無駄にはしない』


 胸の奥に芽生えたその決意が、再び前を向かせる力となった。


 それは静かに、けれど確かに始まっていた――。


 マリーニュ伯爵領北東域の山岳地帯に防衛の要として築かれた城塞町〈ヴァルメリア〉。


 その周辺で、異常な魔力反応が観測されたという報せが、マリーニュ伯爵家にもたらされたのは、初冬の風が領都に吹き始めた頃だった。


 湖の水温は下がらず、岸辺には瘴気に耐性のある花が咲き乱れているという。例年ならすでに氷に閉ざされているはずの湖が、凍るどころか命を芽吹かせている。


 領都(ヴァレオル)に届いたその報告を前に、アラン伯爵は迷わず命を下した。


「避難計画を発動する。対象はヴァルメリアを支援する目的で設けられた村々。兵を動かし、備蓄と輸送の手はずを整えよ」


 その場に控えていたのは、アラン伯爵の弟にして伯爵家騎士団長であるダルム男爵。


「わかった、兄上。俺の槍は、いつでも戦陣に備えている」


 兄は領全体の政務を見据え、弟は最前線で槍を振るう。それがこの兄弟にとって当然の役割であり、迷いは一片もなかった。


 ダルム男爵の号令とともに騎士団は動き、各村への避難誘導と周辺警戒が始まった。


 同時に領都(ヴァレオル)では乾燥薬草の備蓄と調薬体制が強化され、各地の調薬所が緊急編成に移行する。


 アルフォンスとリュミエールも、その備えの中核を担っていた。


「ミルド村からの乾燥薬草、今日の便で届きました。乾燥状態も完璧です」


 薬籠を開きながら、リュミエールが穏やかに言う。


「助かる。湿気も吸ってない。本当に、魔道具が間に合ってよかった」


 ミルド村に配備された乾燥魔道具はアルフォンスが母ティアーヌと共に調整したものだ。


 そのおかげで質の高い乾燥薬草の供給が可能となり、ポーション増産の体制が軌道に乗りつつあった。


「今日も、いいポーションができそうですね」


 微笑むリュミエールの横顔に、アルフォンスも静かに頷く。


 やがて避難活動が本格化し、ふたりも数度にわたり現場へ同行した。騎士たちと共に、各村から集まる避難民を迎え、その安全を確保していく。


 そして今、目の前にいるのは事実上最後の避難民たちだった。疲れ切った表情、時折足を止めてしまう者もいる。それでも、リュミエールもアルフォンスも冷静さを崩さず、人々を導き続けた。


「これで、最後の集団ですね」


 深い息をつくアルフォンスに、リュミエールが小さく笑みを見せる。


「本当に、長かったですわ」


 昼食の休憩が終わり移動を再開する――。


 霧の立ち込める林道で、異変が訪れた。斜面の奥から、黒い影が一つ、また一つと現れる。大型ではないが群れをなしている。


 その体表は、瘴気に馴染んだような不気味な光沢があった。避難民の列を見つけ、じりじりと距離を詰めてくる。


「アルフォンス……っ」


 息を呑むリュミエール。護衛の騎士たちが即座に陣を取り、迎撃の構えを見せる。数が多かった。このままでは突破される。


 アルフォンスが一歩踏み出そうとしたその瞬間――。


「私がやります」


 リュミエールの声が、霧の空気を裂いた。


 静かに指を掲げ、魔力を紡ぐ。魔法は人を助けるもの、そう教わってきた。


 魔物は人ではないが〈殺す〉という行為は、これまで彼女の中で踏み越えたことのない領域だった。


 傷つけること、壊すことに魔法を使うことへの迷いが、長く心を縛ってきた。


 けれど今、目の前には泣きそうな子どもがいる。傷を負いながら剣を握る騎士もいる。


 そして、隣で戦おうとする彼がいる。――この手で守る。彼と共に並び立つために。


 火の魔力が収束し、風が渦を巻く。解き放たれた〈火〉と〈風〉の複合魔法が、螺旋を描きながら魔物の群れを薙ぎ払った。炎を巻き上げる風が木々の間を駆け抜け、魔物を一息に包み込む。


「今だ、突撃! 二手に分かれて囲め!」


 アルフォンスの声に、騎士たちが応じて動く。混乱した魔物は次々と倒れ、ほどなく殲滅は完了した。


 林には灰の匂いと火の余韻だけが残る。リュミエールの手は微かに震えていたが、その瞳は揺らがなかった。


「ありがとう、リュミエール」


 その言葉に、彼女は小さく息を吐き、目を伏せた。


 避難活動が終息してから数日後――。


 マクシミリアン公爵家からマリーニュ伯爵家へ書簡が届く。北部の戦線拡大を告げると同時に、防衛の貢献への感謝、さらなる支援の約束が記されていた。


「マクシミリアン公も、覚悟を決めたか」


 書状を読んだアラン伯爵が低く呟く。その脇にはもう一通。王都(リヴェルナ)から密かに届けられた短い便箋があった。


 若きふたりの行動に、王家として深い関心を寄せている。必要あらば、静かなる後ろ盾となることも吝かではないと。


 便箋に綴られた筆跡は、グラディウス・アストレイン宰相のものだった。


「いよいよだね」


 肩を並べたアルフォンスの言葉に、リュミエールが頷く。


「ええ。アル。今はやれることを、全力やるだけです」


 彼女はもう知っている。好きという感情は、誰かを守る力に変わるのだと。


 ――ふたりは再び前を向いた。新たな戦いの予感を胸に、進むべき道を確かに見据えながら。


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