第四節 葉を綴る手、剣を構える足
春も終わりに近づいた頃、ミルド村の森は鮮やかな緑に包まれていた。柔らかな陽光が枝葉の間をくぐり抜け、木漏れ日が地面を彩る。
淡い花の香りが風に乗ってゆらゆらと揺れ、鳥たちのさえずりが軽やかな合唱を織りなしていた。風はひんやりと涼しく、けれどどこか温かみを含み、風はこの季節の終わりの美しさを静かに語っていた。
「アル坊、手つきが板についてきたじゃないか。さすが若いと覚えが早いねぇ」
干しかけの薬草束を揃えながら、ミレイ婆さんが目を細めて笑った。
数日前までぎこちなかったアルフォンスの手は、今や繊細な力加減を覚え、刃の動きにも迷いがなくなった。手のひらに触れる葉の質感、濃い香りが漂い、刻む音が少しずつ身体に馴染んでいた。
「うん、なんとなく感覚がつかめてきたよ。よく見て、よく触って、香りを嗅いで切る」
「よしよし。それなら、次の段階に進もうじゃないか。今度はその感覚を〈外〉でも使えるようにならんとな」
ミレイは椅子に腰を下ろし、茶椀を手にした。湯気がふうと立ちのぼり、作業場は木陰のような静けさに包まれた。
「アル坊、ジルにくっついて森を歩いてるんだろう? だったら、薬草をただ採るだけじゃなくて、どこで見つけたか、いつが採りどきか、そういう〈情報〉も一緒に集めるんだ」
「情報も?」
「そうさ。薬草はただ摘めばいいってもんじゃない。場所や環境、季節のことを身体で覚え、頭に刻むのが大事なんだ」
そう言ってミレイは棚の奥から革表紙の手帳を一冊取り出し、そっとアルフォンスに手渡した。角が擦れ、紙の端に風の跡が残るそれは、長い年月の温もりを宿していた。
ページを開くと、草花の細密なスケッチがびっしりと描かれている。葉脈の一本に至るまで丁寧に描かれ、根の張り方や茎の断面、花の色まで細やかに記されていた。
「これ、師匠が描いたの?」
「ああ、そうさ。描いて、書いて、残す。あたしの流儀だよ。お前さんも、見たものは自分で描くといい。気になったこと、聞いた話、ぜんぶ書くんだ。書いたことは忘れにくいし、あとで読み返すと、また頭に入る」
「そんな方法、思いつきもしなかった」
「ふふ、誰だって最初はそうさ。でもな、調薬師も錬金術師も、ただ物を扱うだけじゃだめなんだ。〈記録する者〉でなきゃいけないよ」
アルフォンスは黙ってページをめくった。
そこに描かれた草たちは、魔石や剣のような力を持つものではなかった。けれど確かに〈知〉として生きていた。根を張り、葉を広げ、時間の中で息づいていた。
見ること。知ること。残すこと。
なぜか懐かしい響きがあった。初めて聞くはずなのに、胸の奥にすっと沁みこんでくる。
「ねえ、師匠。僕もスケッチ、始めてみるよ。絵はまだ下手だけど」
「ふふ、誰だって最初はそんなもんだよ。大事なのは〈うまさ〉じゃない。〈わかること〉だ。自分の目で描いたものは、自分の目で覚えるのさ」
ミレイの横顔は陽だまりのようにやさしく、どこか誇らしげだった。
――その夜
アルフォンスは机に向かい、小さなノートを広げて鉛筆を削った。昼間に扱った薬草の名と特徴を、思い出すままに書き留めていく。切り口の色、茎の固さ、根の香り、どれも指先に残っていた。
「明日からは、森でもこれを開いて見つけた草を描く。書く。覚える」
これからは父の背を追うだけじゃない。
草の陰に目を向け、風の中の匂いを感じ取り、森の変化を読む。戦うためだけでない、〈もうひとつの目〉を、自分の中に育てていく。
修練とは、力を磨くだけではない。
知ること、覚えること、記すこと、それを自分の根にすること。アルフォンスの歩みは、今日もまた、小さな芽を伸ばしていた。
――そうして季節は静かに巡った
朝の光を浴びて森を歩き、草を見つけては記し続ける日々。雨に濡れ、風に吹かれ、冬の冷たさに肩をすぼめながらも、アルフォンスは歩みを止めなかった。
気が付けば、ふたつの春が過ぎていた。
積み重ねた日々は、彼の中で、確かに根となり、幹となりつつあった。
「最近、剣の修練も、山歩きも滞ってるな」
父の言葉に責める響きはなかったが、その静かな指摘はアルフォンスの胸にじんわりと残った。
七歳になってからは調薬の修練が中心だった。
六歳の終わりごろからは火を扱う工程も任されるようになり、小鍋の温度管理や抽出液の調整も一人でこなせるようになっていた。
薬草の洗浄、刻み、乾燥、抽出、濾過。魔力を使わない調薬工程を丁寧に積み重ねていく時間は楽しく、ときに夢中になって時を忘れるほどだった。
その分、体を動かす習慣が抜け落ちていた。
だからこそ、アルフォンスは改めて剣術と体術、投擲の訓練に力を入れ始めた。
冷え込む朝。
吐く息が白く染まる中、木剣を握る。斬り、退き、受け、打つ。父の打ち込みは容赦がなかった。身体の反応は鈍っていたが、それをひとつひとつ受け止め、感覚を取り戻していく。地を踏み、風を感じ、筋肉と骨の動きを確かめるように。
鍛錬は数日間にわたって続いた。
最終日、木剣を交え終えたとき、父はふと眉をひそめて言った。
「最後の方の動きは、目が追いつかなくて危なかったぞ」
「もっと鋭く動きたいと思ってたから、かな」
息を整えながら呟いたアルフォンスの言葉に、ジルベールは少しだけ目を細めて頷いた。外から与えられたものではない。剣を振るう中で自分の内から湧き上がった想いだった。
「よし、だいぶ戻ってきたな」
父の声には、かすかに安堵が滲んでいた。
その夜、焚き火のそばで二人は肩を並べて座った。地図の上には、村の周辺の地形が丁寧に描かれている。谷筋、崖沿いの林、まだ誰も足を踏み入れていない〈白い領域〉。
アルフォンスは揺れる炎を見つめながら、胸の奥の震えを感じていた。それは不安ではなく、小さな期待と、未知の世界への願いだった。
「父さん。ひとりで探索してもいいかな?」
口にしてはじめて、自分の中に確かな覚悟が育っていたことに気づいた。胸の奥に澄んだ風が吹き抜けていった。
ジルベールは火を見つめ、静かに問い返す。
「どういうつもりだ」
「村から日帰りで戻れる範囲を一人で探索してみたい。村の西側、まだ誰も歩いていない場所を探って、地図に線を引きたい。草とか、小動物とか、何があるのか、自分で見てみたい」
思いつきではなかった。
鍛錬の中で改めて気づいた、自分の〈知りたい〉という衝動。それを形にしただけだ。
ジルベールは短く息を吐いて頷いた。
「お前の判断で動け。ただし、戻って来い。どんな時でもな」
肯定でも否定でもない。ただ、選びとることを許す言葉。
――翌朝
森の入り口に立つアルフォンスの背には、いつもの装備に加えてスケッチ帳と草採集袋。
今日は初めて、自分の判断で歩む日。
道なき森を前に、胸が少しだけ高鳴る。けれど、怖くはなかった。剣と知識、そして自分の足で刻む足跡こそが、自分の探究のかたち。冷たい風が枝葉を揺らし、柔らかな光が差し込んでくる。
アルフォンスは一歩、足を踏み出した。
それは、教わる日々から、探しに行く日々への、静かで確かな転機だった。