第二節 街道の春、石鹸の香り
春の陽が、やわらかく街道を照らしていた。冬のあいだ人影のまばらだった道には、今や旅人や商隊、幌馬車が行き交い、その車輪の響きが軽やかに木立へと反響している。
革の外套を肩に掛けた行商人たちが笑い声を交わし、若い荷運びの青年が馬の手綱を引いて駆け抜ける。
沿道の宿場町では窓が大きく開け放たれ、店先には早春の果実や色鮮やかな布地が並び、立ち寄る客の視線をさらっていた。
ついこのあいだまで冬の入り口にあった街道は、今や新たな季節の息吹を全身で謳いあげているようだった。
リュミエールの誕生会が静かに幕を下ろし、春の光が街を包み始めた頃――アルフォンスは一人、街道を駆けていた。
マクシミリアン公爵領都――。
マリーニュ伯爵領の領都から馬車で四日の距離を、昨年は三日で踏破した。今年も同じく鍛錬を兼ね、魔力で全身を強化しての全力疾走である。
春の風はやわらかく、草の匂いを含んで頬を撫でる。熱を帯びた体に汗が滲んでも、吹き抜ける風がすぐにそれを攫っていった。
途中、小川の水を口に含み、浅く息を整える以外はほとんど足を止めなかった。そして三日目の昼前、石造りの巨大な城門と堅牢な防壁が視界に現れる。
『帰ってきたな』
その外観は、まさに王国の盾。威容を誇る要塞都市だ。しかし、その門をくぐればそこは、馴染んだ景色だった。
広がるのは美しく整えられた石畳と、曲線を描く運河。街のあちこちに組み込まれた魔道具が光や動力音をさりげなく響かせ、都市全体が静かな活気を帯びている。
『やっぱり、この街はすごい。でも、もう威圧感はないな』
数か月を過ごしたことで、胸に宿るのは安堵の色だった。
通りを進み、目に入ったのは馴染みの果物屋だ。かつてグラナートに教えられ、通うようになった店である。
「こんにちは、ただいま戻りました」
店主が顔を上げ、笑みを浮かべる。
「ああ、あんた帰ってきたのかい。ちょうど蜜柑が入ったところだよ」
香り高く瑞々しい実が籠に収まり、春の彩りを手の中に収める。
「蜜柑とハーブを一束お願いします」
軽くやり取りを交わし、代金を払い、再び公爵邸へと向かう。
広い門を抜け、庭園を横切って離れの工房へ。扉を開けば、変わらぬ木と鉄の匂いが迎えてくれる。
「ただいま戻りました」
誰にともなく呟き、椅子に腰を下ろすと、ほどなく侍女が盆を手に現れた。
「お帰りなさいませ。軽食をお持ちしました」
香草のスープ、小さなサンドイッチ、冷ましたハーブティー。
「ありがとうございます」
口に運べば、空腹がすっと収まり、胸の奥にほのかな温かさが広がった。
『ああ、これも帰ってきたってことだ』
視線を向けた作業机には、整然と並ぶ魔道具制作の器具。乾燥魔道具はすでに完成している。だが、次の挑戦を急ぐ気はなかった。
『今は基礎に戻ろう。魔道具作りの型を整える。石鹸も、その一つだ』
思い返すのは、公爵邸で最初に作った石鹸。材料も道具も揃っていながら、手順が曖昧なまま勢いで作った結果、泡立ちも香りも乏しい謎の塊ができあがった。
『今回は正しく作る。工程も温度管理も、分量も、全部正しく作ろう』
立ち上がり、侍女に声をかける。
「植物油とアルカリ水、灰とハーブを少しお願いします」
侍女が頷き部屋を出て行く間に、アルフォンスは作業台を拭き、器具を並べる。温度計、撹拌棒、量り。動きは滑らかで迷いがない。
『去年の僕なら、もっと慌ただしかったはずだ』
やがて素材が運び込まれ、木の台に整然と並べられる。礼を述べ、作業に取り掛かる。植物油を温め、アルカリ水を少しずつ加えながら撹拌。灰を加えると混合液にとろみが現れ、反応は順調に進む。温度も安定していた。
最後に香りづけのハーブを散らすと、工房にやわらかな芳香が広がる。
『思った通りの仕上がりだ』
撹拌を終えた液を木型に流し込み、静かに気泡が浮かんでは消えていく様を見届ける。錬金術は万能というわけではない。曖昧な知識を錬成陣として成立させることは難しい。
錬金術に必要なことは探求すること。知識を増やし、増やした知識を錬成陣に落とし込んでいく過程こそが本質。
『やり直して、よかったな』
工房の片隅で、湯気を立てる小鍋をのぞき込みながら、アルフォンスは錬金術による乾燥処理の準備を進めていた。まだまだ錬成陣は手で描き出す必要がある。これもまた繰り返し身体に覚え込ませ意識的に魔力を使い構築していくことになる。
石鹸作りも最終段階。魔力の流し方を細かく調整し、最適な乾燥を目指す。
その集中を破るように――カチリと控えめな音が響いた。
ゆっくりと扉が開き、見知らぬ少年が顔を覗かせる。
「ああ、君がアルフォンスだよね?」
朗らかで人懐こい声。年は少し上に見えるが、年長者特有の圧力はない。短く整えられた明るい金髪と、青灰色の瞳。気さくな微笑みがよく似合う少年だった。
「はい。初めまして、アルフォンスと申します。公爵様にお世話になっております」
緊張を帯びた声で頭を下げると、少年は手を軽く振り笑った。
「そんなに堅くならなくていいって。年もあまり変わらないだろう? 僕はシグヴァルド。この家の三男。よろしく!」
気取らず、無遠慮でもない自然体な態度に、アルフォンスの肩の力が少し抜ける。
「で、今なにしてたの? すごくいい匂いがするけど」
「石鹸の乾燥工程を、錬金術で調整しているところです」
シグヴァルドは少し目を見開いて興味深げに問いかける。
「石鹸を錬金術で? 面白いな、それ。見てもいい?」
「はい、構いません」
シグヴァルドが椅子を引き寄せるのを横目に、アルフォンスは作業へ意識を戻す。
型に移した石鹸を錬成陣に置き、魔力を流し込みながら深度を変えた試作品をいくつも作り、仕上がりを確かめる。
『水分を抜く最適な段階はどこか、香り、手触り、硬さ』
だが、どうしても引っかかる感触があった。
アルカリと油脂を同時に反応させると、泡立ちは不自然で、微かに焦げたような匂いが混じる。工程を巻き戻し、アルカリと油を別々に処理してから撹拌する方法に変えると、香りは澄み、泡立ちは滑らかに整った。
『やはり、工程ごとに魔力を区切るべきか』
作業を続けるうち、窓の外は夕焼け色に染まり、街の鐘が夕餉を告げた。
「俺、部屋に戻るよ。母上に着替えろって怒られる前にね」
名残惜しげに鍋を覗き込んでいたシグヴァルドは軽やかに伸びをし、片手を振って部屋を出ていく。
「すぐ食堂でな!」
アルフォンスも片付けを済ませ、公爵邸の食堂へ向かった。そこにはゼルガード公爵とマティルダ公爵夫人、そしてシグヴァルドの姿があった。
席に着こうとした瞬間――。
「改めてご挨拶をね。私はマティルダ。この家では皆母上と呼ぶけれど、貴方は夫人でいいわ」
金糸を織り込んだ深緑のドレスが、キャンドルの灯りにやわらかく輝いている。
「あ、申し訳ありません、初めましてのご挨拶もせず」
慌てて席を立ち、深く頭を下げた。
「律儀ね。ありがとう、アルフォンスくん」
隣でゼルガード公爵が笑みを漏らす。
「そんなに緊張することもなかろう。ほら、手が震えておるぞ」
シグヴァルドまで肩を揺らして笑う。
「今日から家族なんだから、肩の力抜けよ」
和やかな空気のまま、話題は石鹸作りへと移った。
「まあ素敵。親しい調薬師がおりますのよ。今度、紹介しましょう」
「ぜひお願いします」
その場でゼルガード公爵が口を開く。
「丁度良い。シグヴァルドの王都行きに合わせ、私とマティも向かう。アルフォンスも同行せよ」
「――喜んで」
翌日、紹介された年配の女性調薬師が工房を訪れた。母ティアーヌやミレイ婆さんと旧知の仲で、すぐに打ち解ける。
素材の扱い方や反応の順序をめぐり、議論は熱を帯びていった。錬金術と調薬、魔力と素材の知識が交差し、新たな石鹸の設計図が形を成していく。
『一人では辿り着けなかった発想ばかりだ』
そして旅立ちの朝――。
中庭には荷を積んだ馬車が待ち、春の光が工房の床を照らしていた。アルフォンスは最終試作品を手に取り、指で軽くなぞる。
『思った通りの仕上がりだ』
背に荷を負い、馬車止へと向かう。すでに準備は整えられ、御者が手綱を確認している。ほどなく、ゼルガード公爵とマティルダ夫人、シグヴァルドが館から姿を現した。
軽く会釈を交わし、アルフォンスはそのまま彼らと共に馬車へ乗り込む。
御者の掛け声とともに車輪がきしみ、ゆるやかに回り出した。城門をくぐり、街並みが後方に流れていく。
初めて訪れる王都〈リヴェルナ〉。胸の奥から湧き上がる期待が抑えきれず、アルフォンスは窓辺に身を寄せた。
外には、芽吹きはじめた並木と春の空が広がっている。――その景色を目に焼き付けながら、彼の心は次の地へと駆けていった。
2025/10/29 加筆、再推敲をしました。




