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風の小道と小さな剣  作者: うにまる
第七章 芽吹く想い、練成の光
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第一節 春の誕生会、誓いの言葉

 春の訪れを迎えた、領都ヴァレオル――


 長い冬を越え、街の屋根や通りを撫でる風はやわらぎ、川面には淡い陽光が揺れている。石畳のあいだからは小さな若草が顔をのぞかせ、露店の棚には彩り鮮やかな果実や花束が並びはじめていた。


 通りを行き交う人々の装いも軽くなり、鼻先をくすぐるのは仄かな花の香り。馬車の車輪がゆるやかに響き、どこか浮き立つような気配が街全体を包みこんでいる。


 冬の寒さがようやく和らぎ、空を渡る風に仄かな香りが混じるころ、アルフォンスは十一歳の春を迎えていた。


 今年の春は、少しだけ特別だ。


 マリーニュ男爵家の令嬢リュミエールの誕生会に、双子のミレーユとレグルスを伴って招かれたのである。まだ幼い二人にとっては、初めての貴族の集まり。


 男爵夫人が自ら布を選び、仕立て屋に細やかな指示を与え、縫い目一つまで念入りに確かめて仕上げられた礼装は、春の芽吹きを映す淡い緑と白。無垢な可愛らしさを引き立てる装いだった。


 「せっかくの機会ですから、アルフォンスもきちんとした装いで」


 男爵夫人の言葉に、少し迷った末、アルフォンスは公爵様(ゼルガード)から贈られた深緑の礼装を選んだ。胸元には繊細な銀糸の刺繍が輝く、彼にとって特別な一着である。


 会場となった伯爵邸の広間は、春の花々と薄絹の飾りに彩られ、暖炉の残り火が空気をやわらかく温めていた。招かれた貴族たちが談笑し、穏やかで華やいだ空気が広がる。


 だがミレーユとレグルスは緊張した面持ちで、控えめに笑う侍女に手を引かれ、アルフォンスのそばを離れようとしない。


 その平穏は、会も半ばを過ぎた頃、唐突に破られた。


 遅れて現れたブライヒャー子爵家の次男が、年若いリュミエールに執拗に言い寄り、不躾な言葉を並べ始めたのである。


 伯爵夫妻をはじめ大人たちは別室での挨拶に回っており、広間には子どもと付き添いだけ。止める者は誰もいなかった。


 『これは、見過ごせない』


 困惑を隠せないリュミエールの顔を見て、アルフォンスは一歩前に出た。


 「リュミエール様がお困りのようです。お引き取りを願えませんか」


 広間がぴたりと静まる――

 次男は鼻を鳴らし、嘲るように笑った。


 「平民の分際で口を挟むとは無礼者め。それに、その見栄だけの礼装、笑わせるな。所詮は誰かのお下がりだろう?」


 銀糸の刺繍に侮蔑の目を向け、言葉を重ねる。


 「似合いもしない格好で背伸びするな。身の程を知れ」


 拳を振り上げたその手は振り下ろされることはなかった。アルフォンスは構えもせず、その腕を受け止め、重心を崩したまま静かに押さえ込む。


 「お怪我のないうちに、お引き取りください」


 再び広間に沈黙が落ちた。


 そこへ足音荒く駆けつけたのは、怒りを露わにした子爵家当主である。


 「貴様、我が息子に何を!」


 アルフォンスは深く息を吸い、まっすぐにその視線を受け止めた。


 「申し訳ありません。ですが、これほど傲慢な物言いは、マリーニュ伯爵様にも、マクシミリアン公爵様にも受けたことがありません」


 一拍置き、静かに続ける。


 「そして、この服に対する侮辱についても申し上げます。これはマクシミリアン公爵様より賜った礼装です。私に相応しいかはともかく、贈り主の意志を踏みにじる言葉は、決して看過できません」


 低く抑えた声ながら、その響きは広間を満たすほど鮮明だった。


 「貴方がたは、公爵様以上に無礼を許される権力をお持ちなのですか?」


 その場を包む沈黙を破ったのは、アラン伯爵その人だった。


 「もうよい、アルフォンス。ここからは私が話そう」


 伯爵は歩み寄り、次男を一瞥して言い放つ。


 「この少年はマクシミリアン公から歓待を受け、公爵邸に部屋を与えられ数ヶ月過ごしていた。〈赤鉄のグラナート〉殿とも懇意にし、共に魔道具を開発した共同開発者でもある」


「王家に、新たな魔道具を献上する功績も立てている。子爵家の次男ごときが、対等に立てる相手ではない」


 静かな怒気と明確な線引きが、その声に込められていた。


 「今日はもう、お引き取り願おう。姪の誕生会をこれ以上穢されては困る。償いについては改めて正式に求めさせていただく」


 子爵家の父子が退場すると、広間の空気はようやく落ち着きを取り戻す。


 リュミエールがそっと近づき、声をかけた。


 「かばってくださって、ありがとうございます。でも、あまり無理はなさらないでくださいね」


 その声音には震えを隠した優しさが滲む。

 アルフォンスはわずかに笑みを浮かべた。


 「リュミエール様が困っておられるなら、僕は必ず助けに参ります」


 彼女は驚いたように瞬き、頬を赤らめる。


 「うれしいです」


 少し間を置き、そっと続けた。


 「それと、今日はお越しくださって、ありがとうございました。ミレーユちゃんもレグルス君も、とても可愛らしかったです」


 リュミエールはアルフォンスを見つめ言葉を繋ぐ。


「それに、アルフォンス様も素敵ですわ。少し遅れてしまいましたけど、誕生日おめでとうございます」


 思いがけぬ祝福に、アルフォンスは一瞬だけ目を見開き、深く頭を下げた。


 「ありがとうございます。僕からも改めて、お誕生日おめでとうございます」


 顔を上げ、まっすぐに彼女の瞳を見つめて告げる。


 「今日のドレス、とてもお似合いです。春の花より、ずっと素敵です」


 その瞬間、リュミエールの頬がぱっと赤くなった。


 「……っ、そ、そんな……ありがとうございます……!」


 慌ただしく頭を下げると、彼女はくるりと踵を返し、小走りに奥へ消えていく。残された空気には、春風のような香りがほのかに漂っていた。


 華やかな誕生会の陰で――

 〈公爵に覚えめでたい平民の少年〉という噂が、春の風に乗って静かに広がりはじめていた。

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