第一節 春の誕生会、誓いの言葉
春の訪れを迎えた、領都――
長い冬を越え、街の屋根や通りを撫でる風はやわらぎ、川面には淡い陽光が揺れている。石畳のあいだからは小さな若草が顔をのぞかせ、露店の棚には彩り鮮やかな果実や花束が並びはじめていた。
通りを行き交う人々の装いも軽くなり、鼻先をくすぐるのは仄かな花の香り。馬車の車輪がゆるやかに響き、どこか浮き立つような気配が街全体を包みこんでいる。
冬の寒さがようやく和らぎ、空を渡る風に仄かな香りが混じるころ、アルフォンスは十一歳の春を迎えていた。
今年の春は、少しだけ特別だ。
マリーニュ男爵家の令嬢リュミエールの誕生会に、双子のミレーユとレグルスを伴って招かれたのである。まだ幼い二人にとっては、初めての貴族の集まり。
男爵夫人が自ら布を選び、仕立て屋に細やかな指示を与え、縫い目一つまで念入りに確かめて仕上げられた礼装は、春の芽吹きを映す淡い緑と白。無垢な可愛らしさを引き立てる装いだった。
「せっかくの機会ですから、アルフォンスもきちんとした装いで」
男爵夫人の言葉に、少し迷った末、アルフォンスは公爵様から贈られた深緑の礼装を選んだ。胸元には繊細な銀糸の刺繍が輝く、彼にとって特別な一着である。
会場となった伯爵邸の広間は、春の花々と薄絹の飾りに彩られ、暖炉の残り火が空気をやわらかく温めていた。招かれた貴族たちが談笑し、穏やかで華やいだ空気が広がる。
だがミレーユとレグルスは緊張した面持ちで、控えめに笑う侍女に手を引かれ、アルフォンスのそばを離れようとしない。
その平穏は、会も半ばを過ぎた頃、唐突に破られた。
遅れて現れたブライヒャー子爵家の次男が、年若いリュミエールに執拗に言い寄り、不躾な言葉を並べ始めたのである。
伯爵夫妻をはじめ大人たちは別室での挨拶に回っており、広間には子どもと付き添いだけ。止める者は誰もいなかった。
『これは、見過ごせない』
困惑を隠せないリュミエールの顔を見て、アルフォンスは一歩前に出た。
「リュミエール様がお困りのようです。お引き取りを願えませんか」
広間がぴたりと静まる――
次男は鼻を鳴らし、嘲るように笑った。
「平民の分際で口を挟むとは無礼者め。それに、その見栄だけの礼装、笑わせるな。所詮は誰かのお下がりだろう?」
銀糸の刺繍に侮蔑の目を向け、言葉を重ねる。
「似合いもしない格好で背伸びするな。身の程を知れ」
拳を振り上げたその手は振り下ろされることはなかった。アルフォンスは構えもせず、その腕を受け止め、重心を崩したまま静かに押さえ込む。
「お怪我のないうちに、お引き取りください」
再び広間に沈黙が落ちた。
そこへ足音荒く駆けつけたのは、怒りを露わにした子爵家当主である。
「貴様、我が息子に何を!」
アルフォンスは深く息を吸い、まっすぐにその視線を受け止めた。
「申し訳ありません。ですが、これほど傲慢な物言いは、マリーニュ伯爵様にも、マクシミリアン公爵様にも受けたことがありません」
一拍置き、静かに続ける。
「そして、この服に対する侮辱についても申し上げます。これはマクシミリアン公爵様より賜った礼装です。私に相応しいかはともかく、贈り主の意志を踏みにじる言葉は、決して看過できません」
低く抑えた声ながら、その響きは広間を満たすほど鮮明だった。
「貴方がたは、公爵様以上に無礼を許される権力をお持ちなのですか?」
その場を包む沈黙を破ったのは、アラン伯爵その人だった。
「もうよい、アルフォンス。ここからは私が話そう」
伯爵は歩み寄り、次男を一瞥して言い放つ。
「この少年はマクシミリアン公から歓待を受け、公爵邸に部屋を与えられ数ヶ月過ごしていた。〈赤鉄のグラナート〉殿とも懇意にし、共に魔道具を開発した共同開発者でもある」
「王家に、新たな魔道具を献上する功績も立てている。子爵家の次男ごときが、対等に立てる相手ではない」
静かな怒気と明確な線引きが、その声に込められていた。
「今日はもう、お引き取り願おう。姪の誕生会をこれ以上穢されては困る。償いについては改めて正式に求めさせていただく」
子爵家の父子が退場すると、広間の空気はようやく落ち着きを取り戻す。
リュミエールがそっと近づき、声をかけた。
「かばってくださって、ありがとうございます。でも、あまり無理はなさらないでくださいね」
その声音には震えを隠した優しさが滲む。
アルフォンスはわずかに笑みを浮かべた。
「リュミエール様が困っておられるなら、僕は必ず助けに参ります」
彼女は驚いたように瞬き、頬を赤らめる。
「うれしいです」
少し間を置き、そっと続けた。
「それと、今日はお越しくださって、ありがとうございました。ミレーユちゃんもレグルス君も、とても可愛らしかったです」
リュミエールはアルフォンスを見つめ言葉を繋ぐ。
「それに、アルフォンス様も素敵ですわ。少し遅れてしまいましたけど、誕生日おめでとうございます」
思いがけぬ祝福に、アルフォンスは一瞬だけ目を見開き、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。僕からも改めて、お誕生日おめでとうございます」
顔を上げ、まっすぐに彼女の瞳を見つめて告げる。
「今日のドレス、とてもお似合いです。春の花より、ずっと素敵です」
その瞬間、リュミエールの頬がぱっと赤くなった。
「……っ、そ、そんな……ありがとうございます……!」
慌ただしく頭を下げると、彼女はくるりと踵を返し、小走りに奥へ消えていく。残された空気には、春風のような香りがほのかに漂っていた。
華やかな誕生会の陰で――
〈公爵に覚えめでたい平民の少年〉という噂が、春の風に乗って静かに広がりはじめていた。




