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風の小道と小さな剣  作者: うにまる
第六章 魔法陣、刻まれる意思
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第三節 公爵へお願い、膨らむ夢

 湯浴みを終えたアルフォンスは、館内のラウンジへと案内された。高窓からはやわらかな陽光が差し込み、白石の床には深緑の絨毯が静かに伸びる。


 壁際には瑞々しい観葉植物が配置され、空気にはかすかなハーブと焼き菓子の香りが漂っていた。室内は広く、それでいて落ち着いた温もりを帯びている。


 丸卓の上には白磁の茶器と整えられた茶菓子。


「どうぞお召し上がりくださいませ。こちらは旦那様のお気に入りでございます」


 にこやかに茶を注ぐ侍女へ礼を返し、アルフォンスは椅子に腰を下ろす。湯気の立つ茶を口に含むと、ほのかな甘みと上品な渋味が舌に広がった。


 そういえば、公爵様も大湿地帯で、こんなふうに茶を淹れてくれていた。懐かしい情景が湯気の向こうにぼんやりと浮かぶ。


 しかし、頭の片隅では先ほど湯に浸かった際に蘇った()()()()()の記憶がまた動き出していた。


『灰と油と水……香草で香りづけ……比率さえ合えば、錬金術で一日もかからず作れる』


 成分の図式や加熱・冷却の手順が、手慣れた図面のように脳裏に描かれていく。


 そんな折、屋敷の奥から確かな魔力と気配が近づくのを感知する。


 『……公爵様だ』


 アルフォンスはすぐに立ち上がり、椅子を引いて礼の構えを取った。胸に右手を当て、背筋を伸ばす。平民として許される最上の礼式。


 これは、かつてグレンが教えてくれたものだ――。

 やがて扉が開き、堂々たる足取りで入ってきたのは、ゼルガード公爵だった。


「よく来たな! 久しぶりだ。おお、ずいぶん逞しくなったじゃないか!」


 開口一番、豪快に笑うや、ゼルガード公爵はアルフォンスの頭をがしがしと撫で回す。


「ひゃっ……!」

『や、やめてください……恥ずかしい!』


 赤くなった少年の様子を、控えていた若い侍女が目を丸くして見ていた。ゼルガード公爵がこれほど親しげに接する姿など、そうあるものではない。


「驚いたか? こいつは大湿地帯で共に泥をかぶった仲だ。よく働いてくれた」


 笑いながらそう添えると、侍女ははっと我に返り、慌てて一礼して退室した。


 アルフォンスは気を取り直し、持参した手土産は風印ポーション、乾燥薬草、そして簡略化した調薬レシピを差し出した。


「こちらが、伯爵領で作っているものです」


「おお、風の紋が綺麗に刻まれているな。飲みやすいと評判だ。子供や女性にも喜ばれるだろう!」


 ゼルガード公爵は目を輝かせ、細部をじっと観察している。


「この乾燥薬草は、手順を短縮しつつ効能を安定させられます。僕の場合、煮沸工程も錬金術の錬成で置き換えられるようにしました」


「ふむ――錬金術と調薬の融合か。見事だな」


 満足げに頷いたゼルガード公爵の瞳に、ふと探るような光が宿る。


「さて、それだけじゃあるまい? お前はまだ何か隠している顔だ」


 アルフォンスは一息つき、静かに頷いた。


「はい。僕が本当に作りたいのは、乾燥薬草を安定して大量生産できる魔道具なのです」


「ほう」


「乾燥工程を魔道具化できれば、調薬師だけでなく薬草採取に関わる農民や冒険者にも利益があります。流通が広がり、生活の安定にも繋がるはずです」


「うむ、道理だな」


 しかしアルフォンスは少し視線を伏せる。


「ただ、魔道具の製作は、僕の知識と経験だけでは足りません。錬金術の応用はできますが、組み上げるには専門の技師が必要です」


 アルフォンスは一呼吸おき、お願いを口にする。


「公爵様に、信頼できる方をご紹介いただきたくてこちらに来ました」


 短い沈黙ののち、ゼルガード公爵は腕を組み、にんまりと笑った。


「ふふ、やはりそう来たか。実はもう声をかけてある。お前の話を聞き、興味を示した者がいる。この後、工房へ案内しよう」


「ありがとうございます!」


 立ち上がって深々と頭を下げるアルフォンスを、ゼルガード公爵は手で制しつつ問い返す。


「で、その顔、まだ次があるな?」


「……はい。少し毛色は違いますが、石鹸や洗髪剤のような日用品も作りたいと考えています」


 アルフォンスは少し胸を張って応える。


「清潔な暮らしは、戦う力だけでなく、人の心を守ってくれるはずです」


「石鹸か! ははっ、それは面白い!」


 ゼルガード公爵は豪快に笑い、椅子の背にもたれた。


「お前はやはり面白い子だ。力で押すだけが領土を守る術ではない。民を育てる力、それを忘れぬ者にこそ、風は吹く」


 その声は重厚な屋敷に響きながらも、不思議と軽やかだった。


「政務を片付けたら、夕食を共にしよう」


 そう言い残し、ゼルガード公爵はラウンジを後にした。重厚でありながら親しみを含んだ足音が遠ざかっていくと、控えていた執事が自然と一歩前へ出る。


「旦那様のご指示でございます。こちらへどうぞ。離れの工房へご案内いたします」


 アルフォンスは静かに一礼し、その後を歩み出す。


 本館の裏側、中庭を抜けると、石造りの控えめな建物が姿を現した。主屋の華やかさとは異なり、簡潔で無駄のない造り。


 だが、隅々まで手入れが行き届いており、ここが作業のための場であることを雄弁に物語っている。


「しばらくすれば、旦那様よりお声のかかった魔道具師殿が訪れるかと存じます」


 執事がいったん切り、設備に関する話をする。


「それまでのあいだ、こちらの設備はご自由にお使いください。雑務は私どもが引き受けますので、お気兼ねなく」


 そう告げて執事が下がると、代わって現れた若い侍女が柔らかく微笑み、丁寧に礼を取った。


「ありがとうございます。少し、設備を見て回ってもいいですか?」


「はい。ご案内は必要でしょうか?」


「いえ、大丈夫です。軽く見るだけなので」


 アルフォンスは工房内をゆっくりと歩きはじめる。


 作業台の上には整然と並べられた道具類。金属面は磨き上げられ、光の加減でかすかに反射する。試験器具や小瓶、溶解皿もそろっており、まだ誰の手も入っていない新品の趣があった。


 隣接する資材置き場には、魔力結晶や鋼材、鉱石などが種類ごとに丁寧に分類されている。薬草や生薬の姿はなく、ここが魔道具製作を主眼に置いた施設であることが明らかだった。


 『分離の錬成陣、鉱石からの抽出程度なら試せるかもしれない』


 そんな思案を胸の奥に置きながら、ラウンジのように整えられた一角へと戻る。そこへ、先ほどの侍女が盆を手に現れ、丁寧に紅茶を差し出した。


「お待たせいたしました。お口に合えばよいのですが」


「ありがとうございます。助かります」


 受け取ったカップから、花と柑橘を思わせる香りがふわりと立ちのぼる。ひとくち含むと、柔らかな酸味とほのかな甘みが舌に広がった。


 窓から差し込む夕暮れの光が、工房の床を橙に染めはじめている。


『まずは、乾燥薬草を効率よく作れる魔道具。それが一番だ』


 だが思考の波に、あの湯浴みの記憶がふと浮かぶ、石鹸や洗髪剤のこと。


『あれは、悪くなかった。いや、すごくいい。衛生面を改善できるし、肌荒れも防げる。薬でなくても、人を救えるものはある』


 ひとつの発想が連鎖を呼ぶ。


 植物油と灰、水を使った鹸化反応。アルカリ度の調整、ハーブでの香り付け。薬草の保存と並んで、これは人々の暮らしを豊かにする試みになるはずだ。


 思い立つと同時に、アルフォンスは紅茶をソーサーに戻し、顔を上げて侍女に声をかけた。


「すみません。ひとつお願いしてもいいでしょうか?」


「はい。何なりと」


「灰と、植物油を少し。それから……香りの強いハーブを、いくつか分けてもらえますか?」


 侍女は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに頷く。


「承知いたしました。材料の確認が取れ次第、お持ちいたします」


「ありがとうございます。少し……試してみたいことがあるんです」


 微笑んで去る侍女の背を見送りながら、アルフォンスは深く息を吐いた。乾燥薬草と石鹸。どちらも、人々の暮らしと命を支える確かな力になる。


『必要な道具、やりたいこと、手に入れるべき技術。やることが、また増えたな』


 だが、不思議と焦りはなかった。森での日々を経て、ようやくこの場所に立っている。確かな道のりの延長に、次の一歩があるとわかるからだ。


 夕陽が工房の窓を赤く染める中、少年錬金術師は静かに、しかし力強く、未来への構想を育みはじめていた。


2025/10/26 加筆、再推敲をしました。

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