第二節 要塞都市、風呂の魅力
初夏の陽が高く昇り、街道は乾いた黄土色を帯びて光を返していた。両脇には果てしない平原が広がり、若草が風にさざめく。遠くの丘陵に流れる雲の影がゆるやかに形を変えていた。
馬車の車輪は固く締まった道を滑るように進み、蹄の音が規則正しく響く。舞い上がる土埃に、青草の香りが混ざって鼻をかすめ、アルフォンスは思わず目を細めた。
風をはらんだ外套が草を揺らす。アルフォンスは身体強化の魔法を全身に巡らせ、東方へ延びる街道を駆けていた。
足裏から跳ね返る反発力が一歩ごとに増し、森で鍛えた体と魔力がそれに応える。疲労はほとんどなく、むしろ走るほどに身体が軽くなる錯覚すらあった。
陽はすでに南中を過ぎ、影が少しずつ長くなりはじめた頃――視界の果てに、それは姿を現した。
灰白色の石で築かれた巨大な城壁。塔楼のように聳える門楼。その背後には幾重にも重なる塔屋根と、風にはためく旗。街を守るというより、北方を睨み据える要塞そのものだった。
アルフォンスは思わず足を緩め、息をのむ――。
「あれが、公爵領の領都バストリアか」
遠くからでも圧倒される。高く、広く、堅牢で、空すら切り取るような威容。〈王国の盾〉と呼ばれるマクシミリアン公爵家の名は知っていた。
だが、その威容は想像すら超えていた。
感嘆はひと息。アルフォンスは再び地を蹴る。あの地へ。自らの技術と願いを携えて。風に導かれた歩みは、止まることを知らない。
城門前の広場には、ざわめきが満ちていた。門番たちが手際よく人や荷物をさばき、通行証を確かめ、簡単な聞き取りを行っている。
近隣からの農夫、細工師を乗せた商隊、華やかな馬車を駆る貴族風の一行。あらゆる人々が行き交っていた。
そして、門をくぐった瞬間――。
アルフォンスの胸に、別種の衝撃が走る。
「街の中は、こんなにも――」
外の重厚な威圧感からは想像できない、光と風に満ちた景色が広がっていた。整然と敷かれた石畳が中央へと真っ直ぐ伸び、その両脇には三階建て以上の洒落た建物が並ぶ。
窓辺には花や布が飾られ、行き交う人々の服装は洗練され、魔道具らしき装飾を身につけた者も珍しくない。
噴水のある広場では子どもたちの笑い声が響き、吟遊詩人の竪琴が柔らかな旋律を奏でていた。
「これが……公爵様の領都、か」
外観の堅牢さと、内に宿る温かな活気。その落差こそ、この都市の力を物語っているようだった。
やがて、通りの先に銀糸で〈歯車と羽根〉を織り込んだ看板が目に入った。
黒地の木板に、精緻な象嵌。魔道具工房の証――。
『この街なら、乾燥用の魔道具が作れるかもしれない』
学びというより、作れるという確信に近い希望が胸に広がる。周囲にも魔導具店と思しき工房が点在し、特殊な加工や調合の香りが漂っていた。
歩みを進めるうちに、ふと違和感が芽生える。
『魔道具師って、こんなにも?』
工房前で作業する職人たちの多くは屈強な体躯を持ち、分厚い手袋に目深なゴーグルを着けている。よく見ると耳の形や鼻梁、体格や言葉の訛りが人族とは異なっていた。
もちろん「人」にはドワーフやホビットも含まれる。だが、ここまで人族の職人が少ないとは思わなかった。
『気のせいか? それとも……』
初めて訪れる街だからとアルフォンスは自分を納得させるが、胸の奥に沈んだ小さな澱は消えない。
歩を進める――。
向かう先は、公爵邸城壁のさらに奥に位置する、この国の中枢のひとつ。
風を受けて外套の端が軽く舞い上がる。
ここで、きっと何かが変わる。
風印ポーションと乾燥薬草を携え、小さな錬金術師は、新たな扉を叩こうと歩みを進める。
街の喧騒からやや離れた、石造りの塀に囲まれた静謐な一角。アルフォンスは、その立派な門前にひとり立っていた。
目の前に聳えるのは、王族の血を引くマクシミリアン公爵家の本邸。
白石を積み上げた高い門柱、黒鉄の扉。その中央には〈風と盾〉を象った精緻な家紋が掲げられ、左右には見張り塔が構えている。
漂うのは、揺るぎなき権威の気配。それは自然と背筋を正させるほどの重みを帯びていた。
アルフォンスは小さく息を整えると、門の脇に立つ門兵に丁寧な所作で一礼した。
「失礼いたします。マリーニュ伯爵領より参りました、錬金術師兼冒険者のアルフォンスと申します。公爵様にお目通りを――」
門兵は無言で帳面を開き、ちらりと目を上げ「紹介状は?」と、アルフォンスに尋ねる。
「いえ、特には。ただ、以前手紙をお送りして――」
「それでは通せん。今は予定者で名のある方のみだ。申し訳ないが――」
「おお、アルフォンス殿ではありませんか!」
背後から、快活な声が響いた。
振り向けば、鋼色の鎧に蒼のマントを羽織った騎士が、笑顔を浮かべて歩み寄ってくる。
「あ、第二拠点で……!」
「ええ、覚えていてくれて嬉しいです。グレン・ミルディン。マクシミリアン家直属の騎士です。大湿地帯の任務では、お世話になりました」
記憶が鮮やかによみがえる。以前、公爵家の第二拠点で共に調査にあたった、気さくで親しみやすい騎士だった。
門兵が困惑したように二人を見比べ「あの、お知り合いで?」と、困惑顔で尋ねてくる。
「そうとも。この少年は公爵様直々に面会を許されたお方だ。返書も届いているはずだが?」
「あっ!」
アルフォンスの口から、情けない声が漏れる。すっかり忘れていた。確かに伯爵様が手紙を送ってくれ、公爵様からの返書も受け取っていたのに。
「すみません、僕の確認不足でした!」
門兵は眉を下げ、恐縮したように「いえ、こちらこそ失礼いたしました」と謝罪を口にする。見た目だけで主人の客を追い返したとなると処罰対象となる。
「見た目が若い平民だから仕方ないさ。だが、その彼が一人でこの門を訪れた時点で、何かあると察してもよかったな」
グレンは門兵の肩を軽く叩き、アルフォンスに向き直った。
「さ、中へ。お迎えに来たことにしておきましょう」
こうして、思わぬ助けを得て、公爵邸の門は静かに開かれた。
足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした静謐が肌を包む。深紅の絨毯が真っ直ぐ延び、その両脇には美術品のような織物や調度品。磨き上げられた窓からは柔らかな昼の光が差し込み、屋敷全体に品格と格式が漂っていた。
「まずは旅装を整えましょう。お目通りの前に、ひと息おつきくださいませ」
老執事が静かに告げると、グレンが軽く手を挙げ、アルフォンスを浴場へ案内する。そこは、白石造りの広々とした風呂場だった。床には香草と木桶が整然と置かれ、湯気をたたえた浴槽は大人が数人入っても余るほど。
「――お風呂、だ」
思わず漏れた呟き。アルフォンスの表情に、驚きと期待が交錯する。けれど、同時に胸の奥に奇妙な感覚が広がる。湯に浸かる記憶が、この世界であっただろうか?
森で体を拭くことはあっても、湯船に浸かるなど少なくとも今の人生ではなかったはずだ。前世の、曖昧な記憶。そこから懐かしい情景が顔を覗かせる。
衣服を脱ぎ、そっと湯に身を沈めた――。
温かな感触が全身を優しく包み込み、森の匂いや汗の感触が溶けてゆく。
『……これは、すごい』
肩から力が抜け、目を閉じる。身体の芯から疲れがほぐれていく。初めてなのに懐かしい、不思議な感覚――。
ふと、石鹸と洗髪剤の感覚がよみがえった。泡立つ白い塊、心地よい香り、滑らかな手触り。材料の配合、加熱と冷却、成分の分離と精製。
『……これ、錬金術で作れる』
工程のすべてが自然と頭に流れ込む――。
湯船の中でそっと顔を覆い、小さく息を吐く。
だが、その口元にはわずかな笑みがあった。湯気に包まれながら、静かに明日を思う。――少年錬金術師の新たな歩みは、こうして密やかに始まろうとしていた。
2025/10/26 加筆、再推敲をしました。




