第三節 静かな調薬、やわらかな手
春の陽射しは、まだ冷たさを残す大地をやわらかく照らしていた。雪解け水を含んだ畑の土には新芽が顔を出し、風にそよぐ草の葉がきらりと光る。森からは小鳥たちのさえずりが聞こえ、遠くの空には白い雲がゆっくりと流れている。
アルフォンスは、父ジルベールに背中を押され広場へと歩いていた。広場では、ちょうどガルドの荷車が荷解きを終えたところだった。鉄鍋や塩の樽、織物に乾燥果実。いつもの品々が整然と並べられている。
「アル坊じゃないか。今日はずいぶん早いな」
「ガルドおじさん、昨日の本、錬金術の入門書買いに来たんだ」
ガルドは目を細めてにやりと笑い、荷車の奥から布にくるまれた一冊の本を取り出した。
「ちゃんと取っといたぞ。王都の古蔵から流れてきたって代物だ。今じゃなかなかお目にかかれねぇ」
アルフォンスが、革袋から代金を差し出すとガルドは肩をすくめて冗談めかす。
「ポーションが作れるようになるんだったな。あれはいい。回復に魔力補填、毒消し……命がかかりゃ、値段なんて関係なくなる」
しかし、その声がふと落ち着きを帯びる。
「もっとも、俺みたいな行商には縁の薄い話さ。村じゃ効きは控えめでも、薬湯や軟膏のほうが現実的だ。でもな、本物のポーションってのは命に値がつく」
その言葉を胸に留めながら、アルフォンスは深く礼をして広場を後にした。
日々の営みは変わらない――
朝は畑に水をやり、薪を割り、洗い物を手伝い、犬を追いかける子どもたちと笑い合う。
けれど、昼下がり。
作業を終えた彼が家の片隅で本を広げたとき、その世界は少しだけ、確かに変わっていた。
ページに綴られていたのは、緻密な理論と魔法的構造。素材の変質や融合といった複雑な概念が、細かな筆致で書かれている。
難解な文も多かったが、不思議と〈掴めそうな感触〉があった。それは、ぼんやりとした〈前世〉の記憶と微かに共鳴しているようにも思えた。
だが、ある項目でページを繰る手が止まる。
〈メリアンの葉〉
〈コルダ樹の根皮〉
〈ブルーノ苔〉
どれも聞いたことのない薬草ばかり。
記述には名前しかない。
姿形も性質もわからない。
薬草の知識が、圧倒的に足りていない。そんな思いの中、ふと浮かんだのは、村の調薬師であるミレイ婆さんの顔だった。
母が村に戻るたびに、長く話し込んでいたあの人なら、きっと何か知っている。
「……ミレイ婆さんに、聞いてみよう」
本を閉じ、アルフォンスは迷わず村はずれの調薬店へと足を向けた。
チリン――
木の扉を押すと頭上の鈴が鳴り、乾いた草の香りと煮詰めた薬の甘い匂いが鼻先をくすぐる。棚には干された薬草の束や瓶詰めの薬湯が並び、柔らかな光が静かに室内を照らしていた。
「おやおや、アル坊。この時間に来るのは珍しいの、今日はどうしたんだい?」
ミレイ婆さんが振り返ると、目尻に深く刻まれた皺が優しくほころぶ。いまや彼をアル坊と呼ぶ者は少ない。
だがミレイ婆さんだけは変わらなかった。
「錬金術の本を手に入れたの。でも、薬草は名前ばかりで、どんな薬草かまったく分からなくて」
アルフォンスは少し照れながら、本を差し出した。ミレイ婆さんは目を丸くし、それからふっと目を細めて笑う。
「まったく、あのティアの息子らしいね。いいさ、教えてあげるよ。ちょっとやそっとで音を上げないこと、しっかり見せておくれ」
その言葉に、アルフォンスはぱっと顔を輝かせ、力強く頷いた。こうして、草葉と薬の香りに満ちた小さな店で、少年と老調薬師の学びの時間が始まった。
それはただの知識の習得ではない。
変えるための、小さな一歩だった。
それからというもの、ミレイ婆さんのもとで調薬の手ほどきを受ける日々が続いた。
「ほれ、アル坊。今日はまず〈ルビナ草〉を三束、きちんと洗うところから始めようか」
朝の光が調薬店の作業場に差し込み、棚の薬瓶がほのかに輝いていた。ミレイ婆さんの声に促され、アルフォンスは木桶に手を伸ばす。赤茶けた細長い葉をそっと一房すくい、指先でなぞる。朝露を含んだ葉はしっとりと冷たく、微かに土の匂いが漂っていた。
「こうやって、優しく洗えばいいのかな」
「そうそう。葉の裏まで優しく、な。強くこすれば薬効が抜ける。でも、土はきれいに落とさなきゃいけない。その塩梅が大事なんだよ」
ミレイは腰掛けたまま、別の薬草を手早く切り分けていた。包丁を握る手に無駄はなく、まな板に落ちる刃の音が一定のリズムを奏でている。
「うわ、もうそんなに終わってる」
アルフォンスがようやく三束目を終えるころには、ミレイは薬草を刻み終え、すり鉢で調合に入っていた。
「師匠早すぎ。なんでそんなに動きが途切れないの?」
「ふふ、長くやってりゃね。手が勝手に動くようになる。止まらないってのは、失敗が怖いからでもあるんだ。動き続けることが、心を曇らせない術でもあるんだよ」
「でも、計ってませんよね? いつも適当に入れてるように見えるけど」
「お、気づいたか。あたしは量らん。見て、触って、香りを嗅いで、舌で確かめる。それが一番正確なんだよ。素材はね、自分のことをちゃんと教えてくれるのさ」
鍋を木べらでゆっくりとかき混ぜながら、ミレイの目はどこか懐かしさをたたえていた。
「失敗したり、効きすぎたりしたことは?」
「そりゃあ、昔は散々ね。でも、そうして覚えるのが調薬師ってもんさ。目分量はね、経験と信頼の証。素材と、自分の手を信じるってことさ」
「なんか、かっこいいな」
「ふふ、そう思うならなおさら。でも、アル坊はちゃんと計るんだよ。若いうちは、目より器を信じな」
照れ笑いしながら桶に向き直る。
洗う、刻む、潰す。単純な作業のようでいて、草によって扱いは異なり、覚えることは多かった。ミレイは作業の合間に、ひとつひとつの〈コツ〉を教えてくれた。
「ルビナ草は、横筋に切ると香りが立つよ」
「コルダ樹の皮は、煮出す前に少し炙るとえぐみが抜ける」
それは書物には載らない、暮らしの中から紡がれた〈手ざわりの知恵〉だった。
「師匠、これでいいかな?」
「うんうん、最初にしちゃ上出来さ。ただね、刃の角度、もうちょい浅くしてごらん。切り口がきれいになるから。ちょっと見ておれ」
包丁をひょいと受け取り、ミレイは草を手に取ると、迷いのない手つきで切り分けていく。その刃の動きは、風が舞うようにしなやかで、どこか美しかった。
「すごい。まるで踊ってるみたいだ」
「おだてたって、何も出やしないよ。でも、悪い気はしないねぇ」
笑いながら草を鍋に落とす背中を、アルフォンスはじっと見つめていた。草の香り、刃の感触、指に残るぬくもり。誰かに教わるということのよろこび。そのひとつひとつが、静かに彼の心を満たしていく。
「師匠、僕こういう作業、好きかもしれない」
「ふふ、知ってたよ。アル坊はね、考えて動ける子だから。こういう仕事は、きっと向いてる」
その言葉に、アルフォンスの胸の奥が、ふわりと温かくなった。
草の香りに満ちたこの空間で、少年の学びは確かな一歩を刻みはじめた。
それは知識でも技術でもない。
心の奥で芽生えた、小さな誇りの種だった。