第一節 風の紋、錬成の先
涼しい風が混ざりだしたマリーニュ伯爵領都――。
夏の終わりが、静かに森を包み込みはじめていた。木々の葉はなお深い緑を湛えているが、枝葉の隙間から降り注ぐ陽の光には、わずかに秋の気配が混じっている。
ひんやりとした風が木立をかすめ、草の香りを含んでアルフォンスの頬を撫でた。森の奥は木々の密度がやや薄く、地面が緩やかに起伏を描く一角に立ち、アルフォンスはゆるく息を整える。そして、静かに魔力を練り上げた。
風と土の属性。自身に宿る二つの属性を意識し、その性質を馴染ませるように魔力の流れを整える――。
風のようにしなやかに、土のように確かに。足裏に伝わる大地の温み、指先を撫でる空気の揺らぎ。そのすべてに神経を注ぎ、魔力操作の精度を一歩ずつ引き上げていく。
身体強化も、もはや日常の一部となっていた。もとは薬草採集のために足を踏み入れていた森だが、今や起伏を生かした足運びや、枝葉を避ける瞬時の判断までもが鍛錬の糧となっている。
ときに小剣を手に短く鋭い連撃を重ね、または掌に収まる丸石へ風を纏わせ、瞬時に射出する。投擲術も次第に身体へと馴染み、動きは一層洗練されていった。
確実に強くなれている実感がある。
一方、母ティアーヌの調薬も順調だった。アルフォンスが錬成した乾燥薬草は保存性に優れ、調薬時の手間を大きく減らす。その結果、使用する水薬の品質は安定し、ポーション全体の効能は飛躍的に向上した。
ティアーヌの手で仕上げられたそれらは、冒険者ギルドでも高く評価され、定期納品の依頼が続いている。
アルフォンスも錬金術の応用を重ねていた。従来の煮出しによる成分抽出――薬草を煮て有効成分を取り出す工程を、錬成によって省く試みを繰り返し、ついに形にしつつあった。
成分の選別、混合、再構成。それらを意志と魔力で導き、不要な苦味成分を弾き出す。結果として、味はまろやかに整えられ、子どもや女性にも飲みやすいポーションが完成する。
仕上げには、瓶の首元に土属性の魔力で刻んだ〈風の紋〉をあしらった。やがてそれは『風印ポーション』と呼ばれ、軽やかな効能と扱いやすさで、冒険者たちの間に静かに名を広めていく。
その日の夕暮れ、工房の片付けを終えたとき、ティアーヌがアルフォンスに声をかけた。
「乾燥薬草の錬成、安定してきたわね。もう、やり方を覚える段階は終わり。これからは精度を鍛えて、品質をさらに高める時期よ」
そう言って、簡易な確認用レシピの束を差し出す。これに沿って再現性を磨けば、品質はさらに向上するだろう。
アルフォンスは急ぎ、乾燥薬草の在庫を整え不在時の備えを整える。
準備は整った――伯爵家を通じ、公爵家への面会願いを手紙にしたためて託す。
数日後、端正な筆致の了承状が返ってきた。
あとは旅立つのみ――。
その夜の食卓。ジルベールとティアーヌを前に、アルフォンスは静かに告げた。
「明日、移動の準備を整え、明後日の早朝に公爵領へ向かうよ」
二人の瞳が小さく揺れたが、ティアーヌはすぐに柔らかな笑みを浮かべ、穏やかに応じた。
「行ってらっしゃい、アル。しっかり話してくるのよ」
「自分を信じ、頑張ってこい」
明けきらぬ早朝――。
夜明けの兆しがようやく空を染めはじめた頃。北方を守る堅牢な城塞都市〈ヴァレオル〉は、まだ薄闇と朝靄に包まれていた。城壁の上では見張りの兵が槍を手に巡回し、城門前の石畳には、早立ちの行商や旅人の足音が響く。
アルフォンスは軽やかな足取りで城門をくぐり、東へと延びる街道へ踏み出した。目指すは、フェルノート王国北部のゼルガード公爵が治める地、別名〈魔道具都市〉とも呼ばれる要塞都市バストリア。
乾燥薬草を、より多くの人々の手に――。
その願いを胸に、アルフォンスの新たな旅が静かに幕を開けようとしていた。
身体強化の術を巡らせ、風の感覚に意識を澄ませながら、アルフォンスは軽やかに駆け進んだ。靴底を通じて伝わる土の起伏を読み、流れる風の乱れから気配を探る。
それはもはや、日々の鍛錬の延長に過ぎなかった。
領都の石畳を離れ、街道が土道へと変わる頃、空気にわずかな棘が混じりはじめる。伯爵領を遠ざかるごとに周囲は荒れ、道沿いの森も表情を変えていく。
冒険者ギルドで注意喚起されていた盗賊の影。それを確信したのは、三つ目の村を過ぎた辺りだった。
『前方、風が乱れてる。数……十は超えてる』
風属性の魔力で行使する探知を深めるまでもなく、耳がそれを告げる。金属がぶつかる甲高い音、短く荒い怒号、土を蹴る複数の足音。
街道脇の茂みに身を潜め、そっと覗く――。
道を塞ぐように停まった一台の荷馬車。その周囲で、数人の冒険者が武器を構え応戦している。外側を取り巻くのは、十数人の盗賊。数の差は歴然で、すでに数名の冒険者が負傷し、守勢に追い込まれていた。
「……ッ、誰か……!」
馬車の影から、一人の商人がアルフォンスを見つけ、声を張り上げる。年の頃は四十前後、品のある外套を纏い、焦りと必死さを湛えた眼差し。
「そこの君! どうか助けてくれ! 一人でもいい、戦えるなら!」
アルフォンスは軽率だなと思いつつ、即座に頷いた。
「――援護に入る!」
茂みを蹴って飛び出し、手にした小石へ魔力を通す。風を纏わせ、瞬時に投石。
一撃目、敵の視線を奪う。
二撃目、背後から冒険者を狙う盗賊の膝を撃ち抜く。
膝を押さえた盗賊の動きが止まる。その隙を冒険者が逃さず斬り払い、戦線にわずかな余裕が生まれた。
「後衛に回って撹乱してる奴がいるぞ!」
「構わん、囲まれる前に突破を狙え!」
数人の盗賊がアルフォンスに向きを変える。
アルフォンスは後退しながら位置を誘導し、足元に〈風刃〉を這わせて草を裂いた。続けざまに〈そよ撃ち〉で砂塵を巻き上げ、視界を奪う。
逃げようと足を運んだ盗賊の膝裏を、投石で強引に浮かせた。
「っ!」
よろめく盗賊の懐へ、冒険者が滑り込み、逆手の短剣で無力化する。
「後衛が上手く崩してくれてる! 押し返せ!」
戦線が息を吹き返す。冒険者たちの動きは連携を取り戻し、押し込まれた陣形が逆に敵を包み込む形へと変わっていく。やがて盗賊たちは散り散りになり、最後の一人が呻き声をあげて地に伏した。
静寂が訪れる――。
息を整えたアルフォンスに、商人が駆け寄り安堵の表情で深々と頭を下げた。
「あの距離で気づき、すぐに駆けつけてくれたこと、すべてに感謝する」
アルフォンスは謝意にうなずき、「そちらこそ、無事でよかった。怪我人は?」と周囲を見回す。
先頭で戦っていた冒険者が歩み寄ってきた。落ち着いた動き、そして最後まで解かぬ警戒の眼差しは歴戦の実力者の証。
「君が来なければ危なかった。助かったよ。アルフォンス、だったな?」
「――はい」
名を聞いた冒険者は、納得したように口元を緩めた。
「やはり。風印の錬金術師は本当に君だったのか」
アルフォンスがわずかに目を見開くと、相手は笑みを浮かべた。
「伯爵領で何度か風印ポーションを見た。まさか作り手が、戦場で風を起こしてくれるとはな」
その言葉に、商人も目を見張る。アルフォンスは荷袋からポーション瓶を三本取り出し、手渡した。
「軽傷なら、これを。風印なので、効果は安定しています。僕は先を急ぎますので、街で報告と後始末をお願いします」
「わかった、任せてくれ」
固く握手を交わし、アルフォンスは再び街道を駆けた。その背を見送りながら、冒険者が呟く。
「……やっぱり、風印の錬金術師だな」
商人が目を細め、「知っているのか?」と問いかける。
「ああ……マリーニュ伯爵領で、静かに風を起こしていた少年さ」
朝露を散らし、草を分けて駆け抜けるその姿は確かに、街道に吹いた小さな風だった。
2025/10/26 加筆、再推敲をしました。




