第四節 導きの糸、応える光
リュミエールと交わした言葉が、胸の奥に小さな灯を残していた翌朝――。
アルフォンスは、いつものように領都北側の斜面へ足を運んでいた。だが今日は、いつもより少し森寄りへと歩みを進めている。
理由ははっきりしない。けれど歩くうちに、あそこにあるという確信めいた感覚が、自然と足をその方向へ導いていた。まるで見えない糸が、彼の歩みをそっと引き寄せているかのようだった。
「もしかして、僕の中にある風属性の魔力が、薬草や魔石を探したいっていう気持ちを拾って、手伝ってくれてるのかな」
ぽつりと洩れた独り言は、森の静けさに吸い込まれていく。誰に聞かせるわけでもないが、その感覚はあまりにも自然で、思わず声となって現れていた。
この感覚は、幼いころから幾度もあった。薬草を探すとき、迷いなく手を伸ばした先に生えていたこと。
森の奥で偶然のように見つかる魔石や動物の気配。あれは偶然でも勘でもなく、きっと風属性の魔力が、さりげなく導いてくれていたのではないか? そんな気がしていた。
「もしかして、創世の女神様が禁じたのって、意図して魔力を使うことだけで、無意識で安全な範囲なら別に禁止じゃないとか?」
自分の口にした答えのない疑問に苦笑が漏れる。けれど心のどこかで、それを確かめてみたいという気持ちが芽生えていた。
『もっと探したいんだ。だから、手伝って』
心の中でそう想いながら、アルフォンスは森の奥へと踏み込む。言葉ではなく、気持ちで伝えるように、そっと魔力へ想いを乗せて。
昼が近づくころ、自宅へ戻ったアルフォンスは、工房の作業台に今日の成果を並べていた。薬草も魔石も、どれも状態が良く数も申し分ない。
その様子を見た母ティアーヌが、ふと笑みを浮かべて声をかける。
「ずいぶん頑張ったわね。今日はずっと森に入ってたんじゃない?」
アルフォンスは棚へ草を仕舞いながら、少し照れくさそうに笑った。
「今日は〈風〉の魔力にお願いしてみたんだ。もっと見つけたいって。そしたら、なんだか足が勝手に動いたみたいで」
「ふふっ、あなたの魔力は働き者なのね」
ティアーヌはそう言って、まるで我が子の友達を褒めるように優しく微笑んだ。
昼食を終えると、アルフォンスはそのまま工房に籠もった。乾かしておいた薬草の選別を終えると、煮出し用の器具を並べて火を入れる。部屋に立ちのぼる薬草の香りが、次第に彼の集中を深めていく。
素材の色や香り、煮出す温度と時間の微調整。どれも今では手慣れた作業だが、今日は少し違う緊張が混じっていた。
魔力の流し込みに、想いを添えてみる。リュミエールとの対話を経て、浮かび上がった魔力に想いを伝える。その試みを実際にやってみようとしていた。
アルフォンスは水薬の入った小瓶を一つ取り、目を閉じる。心の中で魔力の流れを整えながらそっと意識を添える。
『ここに、安らかに、馴染んでほしい。この水薬の中で、穏やかに留まっていてほしい』
その想いを、魔力に込めた――。流し込むだけ、導くだけ。けれど、そこに心を添える。魔力の流れに意識を集中し、素材の内側へとそっと方向を与える。
ここまで――。
と囁くような感覚が返ってくる。その感触を頼りに、魔力を止めた。次の瓶へ手を伸ばす。
ひたすらに、繰り返す。流し、止める。導き、留める。その反復の中で、アルフォンスの心は不思議と静まり、作業そのものが深い瞑想のような静けさを帯びていった。
魔力が素材の中に溶け込み、自然に留まるたび、小さな手応えが胸に灯る。やがて窓の外が淡い橙色に染まり始めたころ、アルフォンスは最後の瓶に魔力を送り終えた。
「今日は導くとか納めるっていう感覚を、魔力に伝えるつもりで、ずっと繰り返してたんだ」
夕食前、作業を終えてそう告げると、ティアーヌは笑みを浮かべながら一本ずつ瓶を手に取り、光に透かして確認していく。
「三十本。どれも安定してるわね。とても丁寧で、自然な封入、これは店頭に並べてもまったく問題ないわ」
瓶を戻したティアーヌは、優しく目を細める。
「魔力に想いを伝える。ずっと前にあなたが言ったこと覚えてる?」
アルフォンスは頷いた。あの言葉が、ようやく形になりはじめている。そんな実感が、胸の奥に静かに広がっていた。
その日は、朝から静かな時間が流れていた。アルフォンスは薬草採集には出ず、工房の椅子に腰を下ろし、作業台の上で指を組んでいた。
目の前には、魔法陣作成に使ってきた用具と材料の数々。しかし、それらは沈黙を保ったまま、動く気配もない。
錬金術を本格的に学び始めてから、彼は自分なりの錬成陣を作ることに挑んできた。ポーション作成や魔力封入では手応えを得つつあるのに、魔法陣だけは一向に進展がない。
描いても、描いても、何も起きない。何の反応もしないという事実は、想像以上に心を削っていく。
だが、今日は少し違う気がしていた――。
「今までと、魔力との向き合い方が違うんだ」
リュミエールと交わした魔力操作という概念。魔力に想いを伝えるという考え方が、今までの自分には決定的に欠けていたのではないか。それを確かめたくて、今日は一日中この試行に向き合うと決めていた。
まず、魔法陣作成に用いる溶剤の調整から始める。基本材料は三つ。蒸留水に自らの魔力を封じた〈魔力水〉、粉砕した〈粉末魔石〉、魔力の流れを安定させる〈ミスリル粉〉。
慎重に調合を進めながら、今回は新たな一工夫を加えた。少量の〈スルリカ草〉抽出液を混ぜ、魔力との馴染みを助ける。
最後の工程は火加減を細かく調整しながら、自らの魔力を穏やかに流し込む。ただの力ではなく、意思を、想いを込めて。
『僕は、この溶剤で魔法陣を起動させたい』
その想いを抱きながら魔力を封入すると、液体は淡い銀緑色に染まり、ほのかに光を帯びた。
「うまく、できたと思う」
小さく呟き、アルフォンスは石板の上に清め布を敷き、陣を描く準備に入った。
今回は教本通りの構成をやめ、自分の〈変質〉の性質を活かす構成を試みる。中心には〈転写〉と〈抽出〉の符形、その外周に〈変質〉と〈精質安定〉を組み合わせた円環を描く。
ペンに新たな溶剤を含ませ、ゆっくりと筆を進める。
『君の居場所を作りたい』
意識を一点に絞り、線の一筆ごとに魔力を送り、陣の構造を結びつけていく。
魔力操作の概念、行きたい方向を伝え、魔力に選ばせる。それはまるで、馬車の御者が行き先を告げ、共に道を進む感覚に似ていた。
最後の線を引き終えた瞬間、アルフォンスはそっと息を吐く。魔力を流す。力ではなく願いとして。
その瞬間――。
石板の上に描かれた円環が、淡く揺らめいた。ほんのわずか、呼吸をするように。
「……今、動いた」
漏れた声は、驚きというよりも深い実感を帯びていた。
確かに、魔力が応えた。まだ微細な反応だが、それは紛れもなくゼロではない。アルフォンスはしばし黙って石板を見つめた。
長く閉ざされていた円環に、一筋の光が差し込んだ気がした。
魔力に言葉ではなく心で語りかけること。――それこそが、沈黙を破るための第一歩なのかもしれない。
2025/10/10 加筆、再推敲をしました。




