第三節 魔力の声、魔力のささやき
朝靄が晴れたばかりの山道を、アルフォンスは静かに歩いていた。斜面の上から差し込む春の光は柔らかく、木々の隙間を縫って淡く地面を照らしている。
草葉をかすめる風に乗り、薬草の香りと、わずかに混じる魔石の気配が鼻先をくすぐった。
領都の北側にある斜面は、冒険者たちにとってよく知られた薬草採集の地だ。冬を越えたばかりの今は、祝福の儀を終えた若き冒険者たちがこぞって訪れ、修練の第一歩を踏み出す季節でもある。
今日もあちこちから、緊張と興奮を帯びた声が風に混じって届いていた。
だがアルフォンスは、その喧騒から距離を置いていた。薬草を探す感覚は、すでに身体の奥に染み込んでいる。彼の足は自然と、陽の届きにくい岩陰や湿った窪地、誰も気に留めない斜面の奥へと向かっていく。
あそこにある――。
そう感じた場所には、やはりほかと異なる気配が息づいていた。
人知れず咲く薬草。淡く輝く魔石。彼は丁寧にそれらを手に取り、必要な分だけ収集する。
日が高くなり空腹を感じた頃、アルフォンスは山を下りた。帰宅すると、家の横に見慣れぬ馬車が停まっている。
『ん? あれは……』
朝は歩いてくる侍女たちが、帰りは馬車か騎士の迎えを受ける。母がそう言っていたのを思い出す。騎士が来ると、どこか嬉しそうにしているのだと、微笑ましげに語っていた。
『ってことは、リュミエール様が来ている』
胸の鼓動がわずかに速まるのを感じながら、アルフォンスは裏口から静かに家へ入った。薬草を工房に運び込み、軽く埃を払ってからリビングへ向かう。
「ただいま」
扉を開けると、柔らかな陽の光のなかで、ティアーヌとリュミエールがティーカップを手にしていた。彼の声に気づくと、二人はほほえみを浮かべて振り返る。
「おかえりなさい、アル」
「こんにちは、アルフォンスさん」
穏やかなやり取り。だが、アルフォンスの胸には、わずかな緊張が残っていた。
『こういうの、まだ慣れないな……』
苦笑いを浮かべてキッチンへ向かい、簡単な昼食をとったあと、再び工房に戻った。
そこではリュミエールがティアーヌの話に耳を傾けていた。調薬に興味を持ち始めた彼女に、ティアーヌが基本的な道具や薬草の説明をしている最中だった。
『そういえば、教えてるって言ってたっけ』
アルフォンスは作業に取りかかり、午前に採ってきた薬草の仕分けと下ごしらえを始めた。やがて煮出しが終わり、水薬が完成すると、ティアーヌが声をかける。
「ちょうどいいところね。リュミエール様、この後の工程もご覧になります?」
「はい。ぜひ見てみたいです」
魔力封入の準備をしようとしたその時、ティアーヌがふと制止の声をかけた。
「アル、昨日話してた違和感のこと、今ここで、リュミエール様にも話してみたらどう?」
アルフォンスは少し驚いた表情を見せたが、すぐに頷いた。
「うん、いいかもしれない」
アルフォンスは、小瓶を両手で包み込むように持ち、中の魔力の残響を感じながら、ゆっくり口を開いた。
「リュミエール様。僕、水薬に魔力を封入する工程で少し違和感を感じているのです」
「違和感ですか……どういった違和感なのですか?」
「水薬に対する魔力封入は、魔力を押し込んで閉じ込めるもの、そう思っていました。でも実際にやってみると、そんな風には感じられなかったんです」
彼は魔力を流し込んだときの感覚を思い返しながら続ける。
「整えて、導いて、馴染ませる。魔力を押し込むんじゃなくて、魔力と向き合いながら場所を与えてあげるような感触があって――」
リュミエールは目を細めて聞き入っていた。
「魔力制御って、力を整えて逸れないようにする技術だと言われています。でも、魔力封入はそれだけじゃ難しい気がして。もしかしたら、魔力の操作、魔力に意図を伝えて導くことのほうが、本質なのかもしれないと考えています」
アルフォンスの声には、まだ確信に届かない思索の熱が宿っていた。
「それを魔力制御で無理やりやろうとするから、習得に時間がかかっているのかもしれない。けれど、できるようになった人たちは、きっと無意識に魔力操作に踏み込んでいるのではないか?と考えてます」
少し沈黙が落ちる――。
リュミエールは静かに、小瓶の中で揺れる水薬を見つめていた。
「……魔力と向き合う」
ぽつりと呟くように言葉が零れた。
「話を聞いて、魔力制御って馬の手綱みたいなものだと思いました。進みすぎないように、道を外れないように抑える。でも、それだけだと馬はどこへ行けばいいのか分からないままかもしれません」
リュミエールは言葉を切り、戸惑いながらも続けた。
「魔力操作とは、進む方向を伝えてあげることなのかもしれませんね。行き先を決めて、道を示してあげる」
そして、魔力がそれを理解してくれる存在なら――という言葉は口に出さなかったが、彼女の瞳はどこかそんな光をたたえていた。
ティアーヌがそっと口を開く。
「たぶん、今までは押し込むような方法でしか伝えられてこなかったのね。アルが感じたように、魔力って本当はもっと繊細で、思いを受け取る存在なのかもしれないわ」
アルフォンスはゆっくりとうなずいた。
「だからこそ、魔力操作という感覚が必要なんだと思います」
静かな工房に、魔力の気配がわずかに揺れた。
リュミエールはふと小さく息を吐いた。手元の水薬の瓶を見つめる彼女の瞳に、新しい光が宿っている。
『……私のなかなか上達しない魔法も、もしかしたら』
ずっと何かが噛み合わない感覚。言われた通りにやっているのに、どこか上手くいかない。魔力を押し出そうとするたび、どこかで途切れてしまう理由――。
それは、魔力制御にばかり意識を向け、肝心の魔力と向き合えていなかったからではないか。
言葉にはならなかったが、その気づきは確かに彼女の胸に芽吹いた。
それはまだ頼りない小さな芽だったが、――アルフォンスから差し出された種に応えるように、確かな息吹を伴い静かに根を張り始めていた。
2025/10/10 加筆、再推敲をしました。




