第四節 家族の絆、未来への心の灯
冬の冷気が領都の空を薄く包み始めていた。城壁の上を渡る風は白い吐息を奪い、凍えた石畳には、早朝に舞った粉雪がかすかに残っている。街路樹の枝は葉を落とし、裸の枝先に陽がきらりと反射し、通りを歩く人々は外套を深く合わせながら足早に行き交った。
薬草を扱う店の軒先には、冬支度を終えた束が干され、青や褐色の影を壁に落としている。遠くからは鍛冶場の槌音が響き、冬の訪れにも変わらぬ営みを告げていた。
だが、厚い扉をくぐれば、家の中には柔らかな灯りと、変わらぬ温もりが満ちている。窓越しに漏れる橙の光は、外の冷えを忘れさせ、家々を小さな灯火のように街並みに点じていた。
「双子の名前、決まったのよ」
微笑みながら告げたのは、母ティアーヌだった。
妹はミレーユ――。
澄んだ緑の瞳に、ふとした瞬間に母に似た微笑を浮かべる、可憐な女の子。
弟はレグルス――。
まだ小さな手でしっかりと指を握り、無垢な瞳でじっと見つめてくる、健やかな男の子。
二人とも元気そうで、アルフォンスは胸を撫で下ろす。伯爵家から遣わされている侍女たちは今も通ってきており、なかでもマリーという少女が双子を溢れるような愛情で世話してくれているという。
彼女はメイド長の娘で、しっかり者。年の離れた姉のように双子を可愛がっている姿が目に浮かぶようだった。
そんなある日、ティアーヌは少し得意げな表情を見せた。
「どういう経緯かは分からないんだけどね、マリーニュ男爵家の令嬢が、双子を見に来たの」
どうやら伯爵夫人との会話の中で興味を持ち、侍女を伴って訪れたらしい。滞在は短く、すぐに迎えの馬車で帰っていったそうだが、アルフォンスたちとは入れ違いだった。
「リュミエール様っていうの。白金の髪に、水色の瞳、まるで雪精みたいだったわ。気品があって、それでいて可愛らしくてねほんとね綺麗なお嬢様だったの」
母が少し誇らしげに語るのを、アルフォンスは苦笑しながら聞いていた。けれど、その名と姿の響きは、どこか胸の奥に静かに刻まれていく。
夜、父ジルベールと炉端で過ごすひとときには、村の話題も上った。
「ニコルが、東と北東の管理を任されてな。狩人として正式に立つことになった」
さらに父自身も、これからは活動の拠点を領都に移すという。西方の河川調査で人の出入りが増える季節には、案内役として同行するのだそうだ。
「暇なときに近場で狩って、肉を流せば困りはせん」
変わらぬ調子で語る父の言葉に、アルフォンスは安堵と、少しの誇らしさを覚えた。
数日後、公爵家から一つの木箱が届けられた――。
中に収められていたのは、以前ゼルガード公爵が話していた書物、〈錬金術応用概論〉と〈魔法陣応用概論〉だった。
それだけではない。魔法理論の基礎、鉱石に関する知識書、属性ごとの精製法をまとめた資料まで実に丁寧に選び抜かれた本が収められていた。
「こんなに、全部、僕に?」
胸の奥が熱くなる。すぐに礼状をしたため、アラン伯爵様を通して公爵家へと届けてもらった。
冬は外出の減る季節。アルフォンスの部屋は、あっという間に書の楽園と化した。もっとも、本を読むだけでは終わらない。
「おい、少し体が鈍ってきてるぞ」
声をかけてきたのは、もちろんジルベールだ。父の一言で、剣術・体術・投擲術の鍛錬が再開された。しばらく身体を動かしていなかったため、最初は筋肉痛に苦しむことになった。
やがて、感覚は戻り、動きはむしろ鋭さを増していった。
「アル、最近また動きが良くなってるな」
「そう?」
「たまに俺が捌けない時がある。成長だけじゃ説明がつかん。まあ、いい傾向だ」
あの湿地での実戦経験は、確かにアルフォンスの中に深く根を下ろしていた。
こうして冬は、静かに、けれど確かな歩みで過ぎていく。本を読み、身体を鍛え、家族と語らい、時に双子の笑みに癒される日々。
そして季節は春を向かえる――。
アルフォンスは十歳を迎える。それは、王国の民として初めて魔力を授かるための節目、〈祝福の儀〉が目前に迫っていることを意味していた。
その朝、空は驚くほど澄み渡っていた。冬の冷たさを宿しながらも、透明な青が雲ひとつないまま、どこまでも広がっている。
まるで天が、この日が特別なものであると告げているかのようだった。
祝福の儀――。
十歳を迎えた子どもが創世の女神の前に立ち、初めて魔力の加護を授かる。王国における人生の第一歩であり、誰もが一度だけ迎える節目の日。
その門出を飾るには、これ以上ないほど清らかな朝だった。
「今年、祝福の儀を受ける子どもは、例年より少ないそうだ」
教会の前で、ジルベールがふと言葉を漏らす。わずかに寂しげな声音だったが、アルフォンスの胸は緊張と期待でいっぱいで、その響きを深くは拾えなかった。
その時――。
静かな広場に一台の馬車が石畳を踏む音を鳴らしながら滑り込む。洗練された装飾を纏ったそれは、ひと目で高貴な家のものであると分かった。
扉が開き、陽光を受けて白金の髪が輝く。現れたのは背の高い男性と、その傍らに立つ一人の少女。その姿を見た瞬間、世界の音が遠のくような感覚に包まれる。
煌めく白金の髪、澄んだ水色の瞳。
まっすぐに伸びた背筋。
空気までも纏うような凛とした清廉さと美しさ。
『リュミエール様』
母が語っていた名が、自然と胸に浮かぶ。マリーニュ男爵家の令嬢、リュミエール・マリーニュ。
彼女はこちらを見やり、ティアーヌの姿に気づくと、柔らかな微笑みとともに小さく手を振った。その控えめでありながら品位のある仕草に、アルフォンスの胸が不意にざわめく。
理由は分からない。ただ、胸の奥がそっと引き寄せられるような、不思議な感覚があった。
やがて、教会の鐘が静かに鳴り始め、場の空気が引き締まる。祝福の儀が始まるのだ。
創世の女神へ感謝と祈りを捧げるとともに、これから歩む道の加護を願う。十歳という節目を迎えた子どもと家族は、一斉に頭を垂れた。
名が一人ずつ呼ばれ、家族とともに個室へ通されていく。最初に呼ばれたのは、やはり彼女だった。
「リュミエール・マリーニュ様」
男爵とともに奥の扉へと進む後ろ姿を、アルフォンスはただ黙って見送る。貴族には祝福の儀で将来の進路を表明する慣例がある。
それは、公の場での宣言であり、王国の制度の一部として定められた義務だ。
静寂の中、扉が再び開く。壇上に現れたマリーニュ男爵が、人々の視線を受けながらゆるやかに告げた。
「我が娘、リュミエール・マリーニュは、〈火〉〈水〉〈風〉。三属性の加護を受けました」
場内が小さくざわめく。三属性を併せ持つ者など、滅多に現れるものではない。
「本人の希望とも合致し、育成学校にて修練を重ねる所存です」
祝福と称賛の声が広がる中、男爵家の一行は静かに教会を後にした。
その後、数名の子どもが順に呼ばれ、アルフォンスの番になった。
「ミルド村より、ジルベールが子、アルフォンス」
父とともに個室へ進むと、穏やかな笑みをたたえた年配の司祭が待っていた。
「よくここまで健やかに育たれました。女神の導きに感謝を」
短い祈りののち、司祭が手をかざす。途端、身体の奥でゆるやかに魔力が反応を始め、ふわりと温もりが広がった。視界の奥に、色と気配が淡く芽吹く。
「ふむ、〈風〉と〈土〉。これが君の基本属性ですな。特異属性として〈変質〉を有している。実に楽しみな若者ですな」
アルフォンスは深く一礼し、その言葉を静かに受け止めた。
ついに、自分も魔力を扱える――。
錬金術も、魔法陣も、本格的に進められる。
この冬に吸い込むように読み込んだ知識たちが、ようやく手足となって動き出すことができるのだ。
伯爵家の役に立ちたい――。
いつか、公爵様の仕事を手伝える人間になりたい。
そして、新たに芽生えた願いがあった――。
いつか、あの人の隣に立てるようになりたい。
教会を出ると、空はさらに明るさを増していた。白く残る雪が陽光を受け、きらきらと輝く。冷たい風が、どこか春の香りを運んでくる。
白金の髪をなびかせたあの少女の姿は、もうどこにもない。けれど、――そのまなざしは今も胸の奥に、深く焼き付いていた。
2025/10/10 加筆、再推敲をしました。




