第二節 風の導き、錬金の扉
春の柔らかな陽射しが冷たさを残す大地を包み込み、畑の若草は風にそよいでいた。遠くの森からは小鳥のさえずりが響く。
そんな朝、アルフォンスは呼吸を整えながら体調の落ち着きを取り戻しつつあった。目覚めの重さも胸のざわめきもいつの間にか薄らぎ、日常の温もりが心と身体に静かな安心をもたらしていた。
畑では芽吹いた豆の若葉を優しく間引き、井戸から汲んだ水を桶に満たして腰に下げる。行き交う村人たちに「元気になったなあ」と声をかけられれば、アルフォンスはにこりと微笑んで応えた。そんな何気ないやり取りが、胸の内に小さな安堵を運んでくる。
日常が、帰ってきたのだ――。
ある日、父ジルベールが狩りに出るというので、アルフォンスは静かにその後を追った。
森の小道を踏み分け、落ち葉の香りに包まれながら、息を殺して耳を澄ます。ジルベールは寡黙なまま、獣の痕跡を示し、身振りで足音を消す術を教えてくれた。
アルフォンスは、教えられたことを反復し、それらの動作の意味を考え、そして身体に馴染ませていく。見本を目の前にしながら学び取っていく。
その日の標的は、小柄なイノシシだった――。
ジルベールが弓を引き絞った、まさにその瞬間、空を裂いて影が舞い降りた。枝を切るように滑空してきたのは一羽の大鷲だった。明らかにイノシシを狙っていた。
イノシシは驚き、動きを乱す――。
次の瞬間、アルフォンスの手が反射のように動いた。腰袋から取り出したのは、河原で見つけた滑らかな石。風の流れを読み、重さと形を指先に感じ取り、躊躇なく投げ放つ。
風切り音。鈍い衝突音――。
投石はイノシシの前脚を正確に打ち、体勢を崩した次の瞬間、ジルベールの矢が真っ直ぐに飛び、獲物はその場に伏した。突然の乱入に驚いた大鷲は急旋回して去っていった。
静けさが戻った森の中、ジルベールは弓を下ろし、「よく見てたな」とぽつりと呟きアルフォンスの頭を撫でた。
アルフォンスは小さく頷いた――。
風の向き、獲物の癖、身体の動き。狩りの理が、少しずつ体の奥に染み込んでいくようだった。
数日後、村の広場はにわかに活気づいていた――。
不定期だが、おおよそ月に一度、領都からやって来る行商人、ガルドおじさんが荷車を引いて坂を登ってきたのだ。
その訪れは、村にとってちょっとした祭りだった。広場には即席の市が立ち、納屋は臨時の酒場へと変わる。老人たちは酒樽を囲み、子どもたちは駄菓子を手に笑い合う。
どこからともなく笛の音が響き、春の陽気が村じゅうを包み込んでいた。アルフォンスはジルベールに頼まれ、鉄を買うために毛皮と小さな魔石を革袋に入れて広場へ向かった。
ガルドおじさんが荷台から身を乗り出して「アル坊、今日はひとりで買い物か」と、いつものように気さくに声を掛けてきた。
アルフォンスはうなずきながら「父さんに頼まれて鉄を買いにきたんだ。あとね、これも見て」と、差し出した魔石は淡く赤みを帯び脈打つ光を宿していた。
「ほう、これはなかなか。森で拾ったのか」
胸を張り「うん! 僕が見つけたんだ」と、応えるアルフォンスにガルドおじさんはにやりと笑い、頷いた。
取引はすぐにまとまり、鉄を受け取ったアルフォンスが広場を歩き出そうとしたとき、背後から声がかかる。
「アル坊。お前に見せたいものがある」
そう言って彼が荷車から取り出したのは、革表紙の少しくたびれた一冊の書物だった。
金文字で表題が〈錬金術基礎概論〉と書かれ、その古びた表紙に輝いていた。
表紙を見たアルフォンスは「れんきんじゅつ?」と、初めて聞く言葉だったはずなのに、どこか懐かしい響きがあった。
自分は知っている――。
物質を組み替え、変質させ、再構成する術。理と意志を通じて、世界の理に触れる。かつて存在した〈知〉。
アルフォンスの胸に、ざわめきが広がる――。
ページをめくる指が止まらない。
書かれている文字は難解だ。
けれど、不思議と意味が通じる気がした。
それが何を意味するか、説明はできない――。
だが、確信はあった。
これは、自分にとって必要なものだと。
夕食を終えた後、アルフォンスは一人、外の空気を吸いに出た。夜の空気はまだ冬の名残をとどめていたが、どこか清らかだった。
焚き火の準備をしながら、言葉が喉の奥で引っかかる。けれど、母ティアーヌの言葉がふと脳裏をよぎった。
『本当に気になるなら、自分から動いてみるといいわ』
迷っているだけでは、何も変わらない――。
薪小屋から戻ってきたジルベールの背を見て、アルフォンスは意を決した。
「父さん、あの錬金術の本が欲しいんだ」
ジルベールの足が止まり振り返る。斧を静かに地面に置き焚き火のそばに腰を下ろす。焚き火の赤がその横顔を照らす。
「錬金術? 昼間に話していた書物にあったものか」
アルフォンスは小さくうなずき、思い浮かぶ言葉を父に伝えていく。
「うん。まだよく分からないけど、すごく面白そうだった――」
真剣なまなざしでジルベールを見つめる。
「薬草のことや、調薬の知識ももっと深く学べる気がするんだ。でも、そういう事ではなくて――あれは僕に必要なものだと感じるんだ」
ジルベールは視線を落とし火を見つめ、懐かしむような声で、「昔し、ティアが言ってたな」と過去を思い出しながら静かに口を開いた。
「ポーションは、調薬師より錬金術師の方がずっといいものを作るってな――」
ジルベールは少し笑って、続ける。
「薬草の選び方も違うらしい。魔力の通りやすさがあるとか、俺にはさっぱり分からん」
アルフォンスは、知らなかった母の言葉に小さく息を呑んだ。ジルベールは焚き火を見つめながら、低く確かな声で言う。
「錬金術ってのがどういうものか、正直俺には分からん。だが、お前が『欲しい』って、自分の口で言ったのはこれが初めてだ」
そう言って、ジルベールはそっと手を伸ばし、アルフォンスの頭に手を置いた。その手は荒れていて、けれど確かに暖かかった。
「お前が必要と感じたのなら、明日ガルドのところへ行ってその本を手に入れてこい」
ジルベールの静かな声に込められた信頼が、焚き火の音と溶け合い、アルフォンスの心の奥に染み込んでいく。
「お前は、考えて、組み立てて、形にするのが得意だ。そういう道を進むのも悪くない」
アルフォンスは、小さく、それでもはっきりと頷いた。心に残る記憶と、ジルベールの言葉――。ふたつが、アルフォンスの中で静かにひとつに重なっていく。
まだ、自分が何をできるのかは分からない――。
けれど、変わりたい、学びたい。その想いが夜の静けさに背を押してくれた。焚き火がぱちりと爆ぜ、夜空の星が、空へ続く道のように瞬いた。
その夜――風は森を静かに抜け、小さく開かれた扉の存在を、そっと祝福しているかのようだった。
2025/10/03 加筆、再推敲をしました。




