第一節 水と命の調和、静寂に息づく理
ひたり、ひたりと、水が足元を撫でる――。
踏み込むたびに、土はぬかるみに変わり、苔の絨毯が湿気を含んで沈み込む。入り組んだ根が足に絡みつき、一歩進むごとに注意を要する道のりだった。
だが、アルフォンスは立ち止まらなかった。しゃがみ込み、目の前の草地へと手を伸ばす。
葉のかたちは〈ヒュルメル草〉に似ている。だが茎の色合い、香りの調子、何より根元に咲く白い花が異なる。これは別種だ。
「まだ知られていない薬草かもしれない」
呟きながら、防水加工されたノートを広げる。これは、母ティアーヌが調合の合間に作ってくれた専用帳だ。水気の多い場所でも文字が滲まず、湿地での調査には欠かせない相棒だった。
葉の形状、手触り、茎のしなり具合。周囲の植生と地質、光の当たり具合や湿度まで観察すべき項目は尽きない。書き込む手を止めないまま、アルフォンスは顔を上げ、辺りを見渡した。
ここは、フェルノート王国北西端、地図にも記されぬ、誰も足を踏み入れていなかった場所。
名もなき土地、〈大湿地帯〉――。
アルフォンスが単独でこの地に辿り着いたのは、ほんの偶然に過ぎなかった。だが、偶然で済ませてしまうには、あまりにこの場所は、他と違っていた。
広い。静かで、重く、なおかつ繊細に満ちている。一見すればどこまでも同じ風景に見えるが、百メートルも進めば地面の質感も植生も、水の流れすらもまったく異なってくる。
苔が多い場所、草が優勢な場所、動物の痕跡が密集する場所。それぞれが独立した〈層〉を持ちながら、全体としては不思議なまでに調和していた。
鳥の声が響いた。高く澄んだ鳴き声。〈ミルウィス〉だろう。
水面をかすめて飛び立つ羽音、小魚が跳ねる音、遠くで枝を踏みしめる四足獣の気配。どこかしらで、絶え間なく何かが生きている。だがその気配は決して騒がしくない。むしろ、ぴたりと噛み合った歯車のように静かで美しい。
初めてこの地を踏んだとき、アルフォンスはその広さと〈違和感のなさ〉に驚かされた。あまりに大きな世界なのに、どこを切っても異質ではない。すべてが調和し、息づいている。
探索を始めて十日――。
二週間と決めた限られた滞在の中で、アルフォンスはできるかぎり多くの区域を歩き、記録を重ね続けた。夜には濃霧が立ち込めるため、移動は日中に絞り、朝夕は拠点での資料整理に費やした。観察の最中、最も印象に残ったのはこの湿地に棲む動物たちの〈暮らしぶり〉だった。
気配を消しても、姿を捉えることは難しい。だが、足跡、毛、糞、食べ残された植物の痕、数多くの手がかりが、彼らの行動を物語っていた。
そしてそこに浮かび上がったのは、驚くべき事実だった。彼らは〈集団〉で暮らしていた。数匹ずつがまとまり、時には十数匹の単位で、ひとつの群れを形成していた。
アルフォンスはその集団を〈コロニー〉と名付けた。
村のように、秩序ある集団として存在している。中には親子らしき構成も確認され、仔獣が遊び、成獣が見守っている姿もあった。種族を越えて棲み分け、干渉し合わず、しかし互いに交差しながら共に生きる。
『ただの群生でなく、秩序があり、理がある』
アルフォンスは直感した。これは単なる自然の営みではない。この湿地には、〈何か〉がある。魔力なのか、土地に染み込んだ記憶のようなものか。それは言葉にできないが、確かに感じられた。
彼の観察は、やがて記録を越え、思索へと至った。人がここに関われば、何が起こるのか。この調和を保ったまま、持続可能な接触は可能なのか。
地形の変化、草花の分布、薬草の採取可能量、集団の分布と密度、行動パターン。それらすべてを踏まえ、アルフォンスはひとつの報告書を編み上げていった。
記録ではなく〈未来の判断〉の資料として――。
清書に四日。悔いはなかった。霧の残る朝、背に荷を負い、彼は静かに湿地を後にする。三日かけてミルド村に戻り、まとめた報告書を手に、村長エルマーのもとを訪れる。読み終えた老村長は、しばらくの沈黙の後、低く、真剣な声で言った。
「伯爵様へ知らせる必要があるな、この件はミルド村だけでは抱えきれん。私が行くよりも、お前が直接伝える方がよい」
村長の重い言葉を受け、アルフォンスは翌朝にはミルド村を出て領都に向かった。
マリーニュ伯爵邸の書斎――。
アラン・マリーニュ伯爵の前に立ち、アルフォンスは地図と記録帳を広げた。報告はひとつひとつ丁寧に、そして淡々と。伯爵は何も遮らず、すべてを受け止めた。
やがて、書類を閉じたその手が、深く机の上に置かれる。
「よくぞ、ここまで詳細に。これは、もはや子どもの仕事ではないな」
驚きと、わずかな誇らしさの混じる声だった。静かな間ののち、伯爵は立ち上がり、窓の外を見やった。
「この湿地は看過できん。調査隊を編成しよう。アルフォンスにも、案内役として加わってもらう」
その言葉に、アルフォンスは、短く、しかし確かな意思を込めて頷いた。あの湿地に吹いていた風を、まだ胸の奥で感じていたのだから。
準備と移動で慌ただしい日が続く――。
冬の陽光が、斜めから村の広場を照らしていた。冷たい空気のなか、ミルド村北門のそばに集まる人影がある。そこに立つのは、総勢二十余名からなる大湿地帯の調査隊。マリーニュ伯爵の命によって編成された本格調査の一行だった。
編成は三層構え。伯爵家直属の騎士団より選抜された五名が護衛と拠点の防衛を担い、三組の冒険者パーティが斥候と探索を受け持つ。
そして、案内人として隊列の前に立つのが、まだ少年の面差しを残すアルフォンスである。
目的地は北西。徒歩三日を要する、王国の地図にも載らぬ未踏の地。かつてアルフォンスが単独で到達し、その調和と命の重なりに満ちた土地を記録した場所〈大湿地帯〉である。
初日から三日目まで、隊は北方の森を縫うように進んだ。アルフォンスにとっては馴染み深い道のりだ。かつて父ジルベールと狩りや薬草採取に歩いた道が、そのまま導線となっていた。
だが、村から半日圏を超えると、空気が変わる。木々の密度も音の響きも、まるで別の世界のように沈んでいた。同行の面々にとってはすべてが初見。反対にアルフォンスだけが、記憶と照らし合わせながら一歩ごとに歩みを進めていく。
それは、再びあの風景へ還る旅でもあった。三日目の午後。丘陵地帯を越えた先、霧を湛えた空の下に、かの光景が姿を現す。
ここに境界がある――。
視界が開け、柔らかな冬の陽が大地を撫でる。水を含んだ草原が、うねるように広がっていた。湿った空気が肌を包み込み、霧の帳があたりを静かに覆っている。
「……全部、……これ、湿地帯なのか」
誰かが呟いた。言葉はかすれ、すぐに霧に吸い込まれる。誰もが声を失い、ただその地を見つめていた。中には、無意識に息を呑む者もいた。だが、アルフォンスの瞳だけは、確かに前を見ていた。懐かしさにも似た感情が、その表情に浮かんでいた。
調査隊は、かつてアルフォンスが設けた仮拠点を拡張し、そこを本拠とすることを決定する。騎士たちは物資の展開、防御陣と避難路の整備を進め、冒険者たちは観察・記録のための初動調査に移った。
だが、想定を超える事実がすぐに露わになる。斥候を務める冒険者たちが、興奮と困惑の入り混じった声で報告を上げた。
「コロニーがやたら多い。それも、でかい」
「五、六箇所見ただけでこれだ。密集してるし、どれも活発すぎる。うかつに近づけん」
通常の森では、同種の動物たちが縄張りを持ち、ある程度の距離を保つ。だが、この地では異なる。小動物たちが集団で、しかも異種同士すら重なるように棲んでいる。
十数匹単位の群れがいくつも存在し、その様相はまるで村の点在する集落のようですらあった。アルフォンスは足元の痕跡を見つめ、静かに告げる。
「俺ひとりなら、気づかれずに潜れます。でも、今のこの人数と装備じゃ無理です。強行突破は危険すぎると判断できます。相手も〈読み合って〉きます」
調査隊の指揮官は即座に方針を転換した。湿地の中心部への侵入を見送り、まずは外縁部の安全確保と環境調査を優先する方針に切り替える。
調査は二週間に及び、斥候班による報告は次第に明確な方向性を示し始めた。
「南西方向。そこにこの近辺の〈重心〉がある。棲み方の密度も、痕跡の量も、段違いだ」
隊は第四の拠点を南西へ移設し、調査隊はそこを目指して進路を取った。途中に見られたのは、緻密に折り重なる生態の層だった。
水辺には水鳥。草叢には草食獣。さらにその陰からは捕食者の気配。それらが不思議なほど自然に棲み分けている。まるで、何者かが設計したかのように。そして、最奥の草地を越えた先。
丘の向こうに、巨大な影が現れた――。
虎に似た姿の獣が、四頭。互いの動きに呼吸を合わせ、慎重に地を踏みしめている。子を守るような構えで、鋭い視線を周囲に巡らせながら。
まさしく、この〈大湿地帯〉における頂点捕食者といった姿だった。
その場の誰もが息を呑み、声を失った。そこにあったのは、単なる野生ではない。力と知恵と秩序が調和し、築かれたひとつの世界だった。調査隊はこれ以上の接触を避け、拠点へ撤収。収集した全記録を持ち帰ることを決定する。
帰還後、記録は詳細な報告書としてまとめられた。地図、生物相、群棲分布、植生、そして大型捕食者に関する観察記録。その書類にすべて目を通したマリーニュ伯爵は、静かに息を吐き、低く呟いた。
「大湿地帯の入り口でこれか……。我らの手には余る。マクシミリアン公へ報告を回し対応のレベルを上げるしかるまい」
そして、一通の書簡がしたためられる。
〈大湿地帯〉は、もはや一地方の探索対象ではなくなった。――王国全体にとって無視できぬ〈新たな領域〉として、その名が記されることになる。
2025/10/10 加筆、再推敲をしました。




