第四節 双子の春、太古の息吹
領都に春の光がそっと差し込み、冷たく湿った石畳が淡くきらめいていた。屋根の上では朝日を受けて瓦が温み、軒先に差した影が通りに細やかな模様を描く。
街路樹の若葉はそよ風に揺れ、角を曲がるたびに光の筋が差し込み、奥の広場では噴水の水音が小さく反響していた。静寂と活動が入り混じる街の朝の息づきが、ゆっくりと広がっていく。
双子の育児にも、ようやく小さな安定が見えはじめていた。家の空気はほんの少し和らぎ、慌ただしかった日々にも、静かな余白が生まれつつある――。
そんなある昼下がり、食後の休息をとっていたアルフォンスに、母ティアーヌがふと顔を向けた。
「そういえば、アル。あなたのお誕生日祝い、まだちゃんとしてなかったわね?」
その言葉に、そばで茶を淹れていた侍女が目を丸くして声を上げた。
「でしたら、伯爵邸の厨房から、なにかお料理をお持ちしましょう!」
ほどなく運ばれてきた料理は、いつもの食卓では見かけない香草焼きの肉と、春野菜をふんだんに使ったパイ、そして、柔らかな果実をとじ込めた甘いタルト。決して派手ではなかったが、心のこもった祝いの席となった。
「お誕生日、おめでとう。九歳だなんて、もう立派なお兄ちゃんね」
ティアーヌの穏やかな言葉に、アルフォンスは少し照れたように笑い、静かにうなずいた。湯気の立つ料理とともに、柔らかな幸福が卓を包んでいた。
だが、胸の奥にあったのは、喜びばかりではなかった。双子の誕生という喜びとともに、その責任の重さも確かにのしかかっていた。
『僕は本当に、この先ちゃんとやっていけるのか?』
まだ幼い九歳の身体に、期待と不安が混じり合い、静かに揺れていた。
そして数日後。荷を整えたアルフォンスは、春の風が吹くなか、領都を後にした。冬の名残はすっかり薄れ、峠を抜ける風には、若葉の香りと微かな土の匂いが混じっている。
道ばたの草原には小さな花が咲きはじめ、乾いていた大地にも、しっとりとした潤いが戻っていた。小さな谷に差し掛かったところで、アルフォンスはふと足を止めた。
芽吹いた草々が風に揺れ、雪解け水が細い筋となって岩肌を伝っている。かつて枯れていた薬草の群生地も、春の光に包まれて瑞々しい息吹を取り戻していた。
『ミレイ婆さんへのお土産にしよう』
革袋を取り出し、春の陽を浴びる薬草を一つひとつ、丁寧に摘み取っていく。その動作に心が安らぎ、揺れていた気持ちのいくつかはここでほどけていった。
ミルド村へ戻ると、アルフォンスは真っ先にミレイ婆さんの家を訪ねた。薬草と、双子誕生の報せを携えて。
「まぁまぁ、双子とはねぇ! こりゃあ母親は大変じゃろう。でも、あのティアのことだ、きっと乗り越えるさ。父親の方は……まあ、まだちょっと頼りないけどのう」
ミレイ婆さんの声に、アルフォンスは笑い、軽く肩を竦めた。
「あはは。ニルスをもっと鍛えて、村のことは安心して任せられるようにするよ。僕は僕で、やるべきことを見つけていくつもり」
「なら大丈夫。あんたがニルスを鍛えて、村のことは任せてしまえばいいんさ」
背を押すようなその言葉に、アルフォンスは少し肩の荷を下ろす思いがした。
『頼られることも、誰かを支えることも、僕にはまだ難しいけど、少しずつきっとできるようになる』
励まされながら、彼はニルスのもとを訪ねて今後の予定を擦り合わせた。
「東側の見回りは、だいぶ慣れたよ。冬の間は感覚が鈍ってたけど、森に入ると体が思い出すもんだな」
春を迎えた森には、眠っていた生き物たちの気配が少しずつ戻りはじめていた。葉の影を抜ける鳥の羽音、潜む足音、若枝を撫でる風のざわめき、それらが静かに森の時を告げていた。
自然の息吹に触れながらも、アルフォンスの心はもっと深く、未知の世界へ踏み込もうとしていた。
「これから、もう一歩踏み込む」
そう決める声は、自分自身への誓いだった。不安もある。孤独も怖い。だがそれ以上に、知りたい、守りたいという強い思いがあった。
最初の拠点は、以前の調査で目星をつけていた谷あいの南斜面だった。
春の訪れは浅く、朝晩の冷え込みは油断できない。だが陽当たりのよい斜面には水場も倒木もあり、野営地として申し分なかった。
苔むした岩と瑞々しい草が広がるその一角に、簡素な小屋を組み立て、食料と水、必要な道具をきちんと並べた。
丘の上には見張り台の代わりとなる岩場があり、そこから谷の入り口が一望できる。
「ここを、僕の拠点にする」
独り言のように呟き、腰を下ろして深く息を吸い込んだ。村での暮らしとは違う、静けさと孤独、張り詰めた緊張感が同時に押し寄せてくる。けれど、それは同時に成長の兆しでもあった。
『これまでとは違う歩み。ここで、自分は何を見つけるのだろう』
耳を澄ませれば、若葉を揺らす風の音、鳥のさえずり、雪解け水のせせらぎが聞こえた。森は、ゆっくりと春の息吹に満たされている。
「よし。これで始められる」
立ち上がると、足元の芽吹いたばかりの草花が、春の光を浴びてそっと揺れていた。
小屋の補強を終えたアルフォンスは、整えた資材をもとに周辺の探索へ乗り出した。薬草の採集も並行して進めたが、冬を越えたばかりの森に豊富な収穫を求めるのは酷だった。
それでも、芽吹きかけた草花がぽつりぽつりと顔を見せており、使用分と乾燥実験用に分け、絞った数だけ丁寧に摘み取った。
地図に採取地を記録する手は、すでに日常の一部となっている。
探索の歩みが進むにつれ、日帰りでは届かない距離にも目を向けはじめた。アルフォンスは往復に無理のない範囲を基準に、第二の拠点設置を始めた。
安全を最優先し、資材を少しずつ運びながら仮設小屋の基礎を整える。完成には一週間を要したが、焦ることはなかった。確かな歩みを感じていたからだ。
第二拠点の整備を終えた後も、探索は続いた。アルフォンスは拠点の周囲を巡りながら地形を確かめ、地図を描き、資材の運搬ルートや安全な往復経路を少しずつ確認していった。
日々の歩みは地味ながらも確実で、季節の移ろいとともに森の変化や日の光の差し方を観察し、周囲の状況を頭に描き込み、拠点の安全を積み重ねていった。
そして二ヶ月目のある日、木々のあいだから差し込む光が、長く地道な探索の末に初めて視界を開いた。
「なんだ、これ――」
呟いた声は森の静寂に吸い込まれていく――。
そこに広がっていたのは、今までに見たどの風景とも異なる光景だった。森の奥深く、ひたすらに光を湛えた水面が横たわっていた。
湿った風が頬を撫で、水鳥が羽ばたいて飛び立つ。一面に広がる広大な湿地帯。
風にたゆたう水草や浮き草。小島のように浮かぶ葦の高みには灌木が群れ、倒木の上には鳥たちが羽を休めている。
浅瀬には無数の動物の足跡が交差し、水面に反射する木漏れ日が重なり合って、あたりを淡く神聖な明るさで満たしていた。
むせかえるような命の匂い、水と土と草の湿り気。それらすべてが、言葉ではなく感覚に直接触れてくるようだった。
アルフォンスは、聞いたこともない巨大な湿地帯を目にして「これ……どこまで続いてるんだ?」と、自覚のないままつぶやきを漏らしていた。
アルフォンスは、ただその景色を見つめた――。
目の前に広がる地形はどの地図にも記されていない。人の痕跡はなく、まるで異国に踏み込んだかのような、深く静かな異質さがあった。
ここは、ただの湿地帯ではない。
命の流れそのものが根づいた場所。
慎重に周囲を調べた彼は、簡易の拠点を仮設し、数日にわたって記録と観察を進めた。地質、水脈、植生、動物の痕跡。すべてが、この場所の持つ意味を物語っていた。
そして、ある瞬間、アルフォンスの中に確信が芽生える。
「やっぱり、ここだ。動物たちの出どころ。ここが、命の源なんだ」
ミルド村の周辺では、以前から動物の数が妙に多いとされてきた。豊かな森、という理由だけでは説明がつかない。まるでどこかから押し寄せているような生命の密度、その正体を語れる者はいなかった。
アルフォンスは、自然が作り出した神秘の地を表舞台に引き出した。
後にこの湿地帯は〈ミルドの宝物庫〉と呼ばれ、数々の神秘を人々の手に届けることになる――。
王国随一と称されるこの湿地帯は、ただの自然ではない。無数の命が共に息づく、生きた地図。
――そして、アルフォンスがその扉を、そっと開いた瞬間だった。
2025/10/06 加筆、再推敲をしました。




