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風の小道と小さな剣  作者: うにまる
第三章 眠る森、目覚める心
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第二節 静寂の森と、若き狩人

 ミルド村に戻ったアルフォンスは、荷をほどく間も惜しんでダルム家の門を叩いた。薪小屋から立ちのぼる煙が、冷たい朝の空に細く広がってゆく。冬の名残が森に漂うなか、村はゆっくりと春支度を進めていた。


 訪ねた理由は、新たに狩人見習いとなったダルム家の三男ニルスと、これからの活動方針を話し合うためだった。


 囲炉裏の火が赤々と燃える居間では、煮出された薬草茶の香りが微かに鼻をくすぐった。向かいに座るニルスは、どこか誇らしげで、それでいて少しだけ緊張しているようにも見える。


「丁度よかったよ。アルフォンスが戻ってきてくれてさ」


 湯呑を手にしたアルフォンスが「どういう意味?」と問い返すと、ニルスは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。


「兄貴の結婚が決まったんだ。年明けには嫁さんを迎えるってさ」


「それは、めでたいな」


「うん。でもそれでさ、兄貴は長男だから当然うちの畑を継ぐだろう。そうなると、俺はそろそろ家を出る時期ってわけだ」


 ミルド村では、長男が家を継ぎ、次男以下は独立の道を探るのが慣わしだ。成人を迎えたばかりのニルスも、その例にもれず、自らの進む道を選ぶことになった。


「だから、決めたんだ。村の狩人になろうって。アルがジルベールさんから引き継ぐ気配もなかったし、だったら俺がやってみようと思ってさ」


 まっすぐに向けられた言葉に、アルフォンスは目を細めた。どこか、かつての自分を重ねてしまう。静かな誇りと、小さな決意。それは何よりも真っ直ぐだった。


「簡単な道じゃないぞ、ニルス」


「分かってる。でも、誰かの役に立ちたい。家を出るなら、村の一員としてちゃんと立ちたいんだ――」


 青さの残る言葉のなかに、確かな意思があった。その声を受け止めながら、アルフォンスはそっと頷く。


 ミルド村を取り囲む森、なかでも東と北東の一帯は比較的安全とされている。まずはその区域を任せるのが、最初の一歩となるだろう。


「まずは東の森を任せる。道筋と地形、獣道、草木の生え方、全部頭に入れておけ」


「ああ。しっかり覚えるよ」


 アルフォンスは頷きながら続ける。


「それと、ミルドの森はとにかく動物が多い。全部を狩れば森が荒れるし、狩りきることもできない。だから追い返したり、群れを散らしたり、時には通す。そうやって均すんだ。森は敵じゃない、調律する相手だと僕は思っている」


「調律、楽器みたいだな」


「そう。音を外せば森は不安定になり、人も獣も暮らしにくくなる。だからこそ耳を澄ませ、森の音を整えてやるんだ」


 アルフォンスは少し考える顔をしてつぶやく。


「春先から北西部の探索を計画してる。ミルド村近辺に獣の気配が濃い理由。それを知りたいと思ってる」


「確かに、理由が分かれば対策しやすい」


 アルフォンスは頷きながら話を戻す。


「父さんが担当していた区域も、早々に任せることになると思う。西側の大河調査に対応するとこを父さんに任せたい。ああいうのは、大人の落ち着きがある人のほうが向いてる」


「たしかに、ジルベールさんって、あんまり喋らないけど妙に安心感あるもんな」


 思わず笑ったニルスに、アルフォンスもわずかに口元をほころばせた。


「それと、弓の鍛練は日課だ。技術ってのは、日々の積み重ねでしか身につかない」


「つまり、狩りのあとにも練習時間を取れってことか」


「その通り。午前中は森を見て回る。午後は鍛錬。疲れててもやる。そういうもんだ」


「よし、やってみるよ」


 翌朝、二人は雪の残る森へと足を踏み入れた。薄く白く染まった林のなかは、静寂と冷気に包まれていた。枝を踏む音一つさえ、慎重に選ばなければならない、そんな空気が辺りを支配している。


「今日は歩き方を覚えろ。森を歩くってのは、それ自体が観察なんだ」


 そう言って、アルフォンスは一本の古木の根元に目を向けた。


「昨日の雪が、ここだけ崩れてる。若いシカが通った痕跡だ。枝の折れ方と、踏みしめの浅さを見てみろ」


 ニルスがしゃがみ込み、注意深く雪の表面をなぞるようにして覗き込む。


「本当だ。言われてみれば、跡があるな」


「毎日見ていれば、違和感に気づけるようになる。見て、聞いて、感じて覚えるんだ。体でな――」


 風が、白い枝葉をやさしく揺らした。遠くでカササギが鳴き、冷たい風が雪のあいだをすり抜けていく。


 静かに、確かに二人の歩みが、森に刻まれていった。


 白く冷たい冬の吐息が森を包む頃、ミルド村は静けさに満たされていく。屋根に積もった雪は軋み、梢の氷は陽を受けて淡く輝き、道は人の足音を吸い込むように凍てついていた。


 風は穏やかで、空は遠く高い。すべてが静止したかのような冬の朝、アルフォンスは変わらず、自らの歩みを進めていた。


 森に白く柔らかな雪が降り積もり始めると、狩人たちは次第に休息の季節に入る。けれど、狩人見習いにとっては、そうはいかなかった。それが、アルフォンスの教えだった。


「いまは鍛える季節だよ。狩りに出られないぶん、弓の腕も、目も、鍛える余裕がある。森に入らない時間をどう使うかで、春からの働きが変わってくる」


 薪をくべた囲炉裏のそばで、ニルスは湯呑を手にして肩を竦める。


「分かってるけど、寒いのは変わらないよな」


 アルフォンスは小さく笑って、うなずいた。


「寒いのは、俺だって一緒さ。でも、冬を越えたぶんだけ強くなる。森も、人も」


 村の少年たちは、この時期、雪かきや薪割りの手伝いに回ることが多い。だが、狩人の務めは違う。森を見守り、静かな異変を見逃さぬこともまた、その責務だった。


 アルフォンスは、雪の合間を縫って月に二度ほど、森の見回りを計画していた。すべてを歩くわけではなく、獣道の交差点や特定の樹種の茂み、水脈の近くといった目印を巡って、季節の移ろいと森の調子を確かめていく。


「冬場で一番怖いのは、川だ」


「川?」


「縁が凍る。そこに雪が積もると、地面と見分けがつかなくなる。氷を踏めば、崩れる。川に落ちたら、まず助からないと思え」


 ニルスの顔が、引き締まった。


「だから、冬の見回りには川を含めない。もし通る必要があるなら、布を巻いた目印を先につけておけ。決して油断するなよ」


「分かった。絶対、確認する」


 こうして、雪に沈む森を見守る活動は、慎重に、けれど着実に進んでいった。


 午後になると、村はひとときの静けさに包まれる。子どもたちは囲炉裏のそばで遊び、家々の軒先では氷柱が日の光にきらめいていた。アルフォンスは、そうした穏やかな時間を、自室での鍛錬にあてていた。


 囲炉裏の熱が届く一角に毛布を敷き、小さな木机の上には、魔法陣の入門書が広げられている。火の灯りに照らされた紙面は、どこか懐かしさを帯びて、彼の心に静かな熱を宿してくれた。


『魔法陣とは、魔力の通路であり、制御の枠である。描線の密度、構成、記号の向き。どれも、魔法の性質と効果を左右する』


 何度も読み返してきた一節だったが、雪の静寂の中で読み返すそれは、不思議とするすると頭に入ってきた。彼は羊皮紙の切れ端や薬包紙の裏に、()()()()()()を一つずつ描いていく。


「この曲線が、もう少し滑らかなら流れが安定するか。でも、この制御線を入れすぎると、力が逃げるな」


 独り言をつぶやきながら、筆を動かし続ける。描いた紙を並べて比較し、ときには火にかざして線の濃淡や筆圧を確かめた。


 魔力を込められるのは、もう少し先。だが、いざという時のために、手の感覚と描線の基礎だけは、今のうちに染み込ませておきたかった。


 その手応えが、今のアルフォンスにとっての喜びであり、前進だった。


 窓の外では、雪が静かに降り積もり、世界が音を失い、深く深く沈んでいくような冬の日。


 紙に描かれた幾何の世界と、雪に沈む森。――どちらも、静かで、どこまでも深い。


 白紙に伸びる線は、秩序を保ちながら重なり合い、まるで雪に覆われた木々の枝のように沈黙を描いている。森の奥では、雪が音を吸い込み、枝葉をすっかり飲み込んでいた。


 風が渡れば粉雪がふわりと舞い、やがて図形の余白に散った線と同じく、静かに消えてゆく。描かれた図と森の姿は、異なる場所にありながら、同じ沈黙を宿していた。


 そうして、村の冬は穏やかに過ぎていった。そして、季節の足音は、もうすぐそこにまで来ていた――。


 窓辺に立ち、白く霞んだ空を見上げながら、アルフォンスは、「もうすぐ、九歳になるんだな」とつぶやいた。


 自分がどれだけ変わったかは分からない。


 ――けれど、季節が巡るたびに、確かに歩いているという感触だけは、彼の胸の中にあった。


2025/10/06 加筆、再推敲をしました。

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