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風の小道と小さな剣  作者: うにまる
第三章 眠る森、目覚める心
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第一節 風渡る丘と、待つ命

 夏の終わりを告げる風が、森の上をゆっくりと通り過ぎていく。まだ蝉の声は残っていたが、空気のどこかに冷たさが混じりはじめていた。


 ミルド村の畑には秋草の影がちらつき、朝露の落ちた野道には、季節の継ぎ目がそっと顔を覗かせている。


 アルフォンスは西方探索を終えて村に戻り、家の手伝いや村の雑事に力を注いでいた。焚き木の確保、道具の補修、畑の囲い直し。冬を前にした村の作業は、どれも簡単なものではない。


 薬草の仕分けや調薬器具の手入れも、日々の作業のひとつだった。母ティアーヌが領都(ヴァレオル)の調薬店で使う素材の多くは、村で丁寧に準備されている。


 そして今、父ジルベールの姿は村にない。


「冬のあいだは領都に出る」


 そう言い残し、ひと足早く山道を越えていった。寡黙な男の背中には珍しく、どこか照れたような嬉しさが滲んでいた。ティアーヌの元で冬の支度を手伝いつつ、しばし夫婦水入らずの時間を過ごすつもりなのだろう。


 一人残ったアルフォンスは、日々の仕事をこなしながら、次なる探索の構想を少しずつ練っていた。


 目指すは、北西――。


 しかし、その先には、西に見えるような目印となる尾根がない。視界に広がるのは、はるか遠くへと連なる山脈と、緩やかな丘陵、そして深い森ばかりである。輪郭の曖昧な広大な地形に、ただ足を踏み出すのは無謀だった。


『無作為に歩けば、必ず迷うな――』


 そう考えたアルフォンスは、出発前のジルベールに探索の基本を尋ねた。


 薪を束ねながら、父は短く答える。


「ブロックに分けて調べていくのが普通だ。ただ、それをやるには基準がいる。北西なら、遠くに見える山並み、あれが使えるかもしれん」


 その助言を胸に、アルフォンスは内心で方針を固めていった。ブロック化するなら、まずは地図がいる。現地で測り、描き起こす必要がある。


『だったらまず、ある程度奥へ入って基点を作り、そこから記録を始めよう……西と同じ手順でいける』


 そう結論づけたアルフォンスは、村にいる間にできる限りの準備を進めることにした。


 やがて風は冷たさを増し、空の色にも冬の気配が宿り始める。ある朝、畑の杭を打ち直していたアルフォンスは、ふと手を止め、空を仰いだ。


「そうか。西を終えて雑務を片づけてたら、そりゃ冬にもなるか」


 空気は乾き、土は硬さを帯びている。


 この季節に本格的な探索は難しい。ならば、冬の間は村周辺の地形を確認しつつ、精度の高い地図作成の訓練に専念するのがよい。


 そして、もうひとつの理由があった。


 ティアーヌが、まもなく村へ戻ってくる。例年どおり、冬をミルド村で過ごすためだ。ジルベールはすでに領都(ヴァレオル)へ入っている。ならば、支度はそろそろ整っている頃だろう。


「じゃあ、迎えに行くか」


 そう決めたアルフォンスは、必要最低限の装備を背に慣れた山道を歩き始めた。幾度となく往復した、雪に閉ざされる前の山道。もはや困難とは言えない道のりだ。


 領都(ヴァレオル)は、冬支度の活気に包まれていた。防寒具の店が軒を連ね、街路には人々の声が折り重なる。路地を抜ける風に乗って、暖かな食べ物の香りが漂っていた。


 アルフォンスは革のコートを新調し、馴染みの露店で鹿肉の串肉を買って、広場の石縁に腰を下ろした。


 そのとき遠くから規則正しい音が響いてきた。


 鎧が鳴る音。馬蹄が石畳を打つ響き。複数の足音が重なり合う。


 騎士団の一団が門をくぐり、整然とした列を保ったまま伯爵邸へと進んでいった。それを目にした人々のざわめきが、まるで風に乗る波のように街中に広がっていく。


「西の探索の報せ、王都に届けたらしいよ」


「王命が下ったって噂話もある。マリーニュ伯爵様も、急ぎで王都に呼ばれたとか――」


 その声を耳にしたとき、アルフォンスはゆっくりと手の串を置いた。


 たった一人で歩いた、西の森――。

 好奇心だけが背中を押していた。けれど今、それが国を動かしている。


『なら、北西も気を引き締めていかないとな』


 王都(リヴェルナ)からの報せ、探索成果に対する騒ぎが町を包む中でアルフォンスの心に浮かんでいたのは別のことだった。


 そろそろ、母さんのところに顔を出さないと。そう思いながら、薬草の香りがほのかに漂う裏通りへと足を向ける。


 領都(ヴァレオル)の喧騒から少し外れたその一角に、ティアーヌの営む調薬店があった。扉を開けると、冷たい外気を押し返すように、店内のぬくもりが迎えてくれる。


 乾燥薬草の香りと薬瓶が整然と並ぶ棚。どこか懐かしさに満ちた空間。帳場の奥から顔を出したのは、少し驚いたような表情のティアーヌだった。


「あら、アル? 本当にあなたなの?」


 微笑みと笑いがまじる声に、アルフォンスは肩の力を抜いてうなずいた。


「うん。冬の探索は見送ることにしたから、少しゆっくりしていこうと思って。それで、母さんを迎えに来たんだ」


 その言葉に、ティアーヌは安心したように微笑み、ほんの少しだけ首を傾げる。


「ふふ、そういうことね。でも、その話は夕食のときにしましょう。今は店が混み合ってるの。一緒に手伝ってくれる?」


「もちろん」


 手際よく棚を整理しはじめるアルフォンスの姿に、ティアーヌも目を細めた。瓶の詰め替えや来客への応対、足りない薬草の確認、調薬の空気に包まれて刻が静かに流れていく。


 やがて日が傾き、店の扉がからりと開いた。涼しい風とともに現れたのは、狩人姿のジルベールだった。思いがけず息子の姿を見て、一瞬だけ目を見開き、そして静かに言葉をかける。


「アル……。よく来たな」


 言葉は少ないが、その声音には喜びがにじんでいた。アルフォンスも自然と笑みを返し、手にしていた瓶を棚に戻す。


 三人で囲む食卓には、湯気を立てるシチューと温かなパン。柔らかな灯火の下、穏やかな家族の時間が静かに流れていく。


 やがてティアーヌが、ほんの少しだけ真剣な顔つきになる。


「アル――ちょっと、大事な話があるの」


 アルフォンスは黙って椀を置き、ゆっくりとうなずいた。


「冬の終わりごろにね、あなたに弟か妹が生まれるの」


 その言葉に、アルフォンスの思考が一瞬、ぴたりと止まった。言葉の意味は理解できたが、実感が追いつかず、母と父の顔を交互に見つめる。


「……ほんとに?」


「ええ、本当よ」


 ティアーヌは少し照れたように微笑み、ジルベールも無言でうなずく。


『弟か妹が、生まれるんだ――』


 その言葉を心の奥で何度も繰り返すうちに、じわじわと温かさが胸に広がっていった。不安や戸惑いはなかった。家族が増える。その事実が、胸の奥にぽっと火を灯すようだった。


「そっか。楽しみだね」


 その一言に、ティアーヌもジルベールも穏やかな笑みを返す。しかし、柔らかな団欒のなかで、ティアーヌはふと表情を引き締めた。


「あなたが生まれたときは村で出産したんだけど、色々と大変だったの。だから今回は、領都で産むことにしたのよ」


 その言葉に続けて、ジルベールが口を開く。


「だから俺も、しばらくは領都に残る。ティアの世話もあるしな。それでだ、アル――」


「うん」


「俺の代わりに、村で狩りを頼めないか。無理はさせない。装備は用意してある。今の時期なら、お前でも十分に狩れる」


 驚きと共に、その言葉の重みを感じながらも、アルフォンスは真剣な顔でうなずいた。


「分かった。僕でよければ、やってみるよ」


 ジルベールは静かに目を細め、言葉を継ぐ。


「最近、ダルムのところの三男ニルスが見習いを始めた。長男が結婚して家を出たのがきっかけだ。まだ弓の扱いは拙いが、真面目でやる気がある。お前からも教えてやってくれ」


「うん、分かった。村に戻ったら声をかけてみるよ」


 話が一段落したころ、通りの外から冬支度に追われる喧騒が聞こえてきた。市では薪を割る音が響き、干し肉や保存食を売る声が、冷たい空気に白い息となって溶けていく。


 翌朝――。


 アルフォンスは新調したコートを羽織り、調薬店の前で両親の見送りを受けた。荷を軽く整え、領都(ヴァレオル)の朝霧のなかを、ひとり静かに歩き出す。


 森はもうすぐ眠りにつく――ふたたび息を吹き返すときには、家族も、新しい命も、彼を待っている。


2025/10/06 加筆、再推敲をしました。

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