第三節 突然の招待、馬車での移動
冬の気配が一層濃くなり始めた王都。朝の陽光は白く柔らかく、冷えた空気に乗って公爵邸の大きな窓から差し込んでいた。
磨き上げられた床には、朝の光が薄く金色の帯となって映り込み、白い陶器の食器をいっそう清らかに照らす。長い食卓の上には、今朝も湯気を立てるスープと香ばしい焼きたてのパン、温かな果実のコンポートが並ぶ。厨房からは、ハーブを混ぜたバターの甘い香りが静かに漂ってきた。
アルフォンスたち四人は窓際に並び、いつもと変わらぬ朝のひとときを過ごしている。シグヴァルドがスープを口に運びながら、ぽつりと「中期も最終日か」とつぶやく。
「なんだか、あっという間だった気がするわ」
マリナは手にしたパンを割りつつ、少し感慨深げに微笑んだ。
「確かに、講座や実習も盛りだくさんでした」
リュミエールも静かに頷き、アルフォンスは苦笑を浮かべながら、「慌ただしかったけど、悪くない学期だったな」と感想を静かにこぼす。そんないつもと変わらぬ朝の空気の中で、アルフォンスがパン皿をそっと押しのけ、立ち上がろうとしたその時――。
重厚な扉が静かに開き、ゼルガード公爵が現れ、「おはよう。……あれ?」と四人を見渡したゼルガード公爵の視線がわずかに止まる。
「今日は王宮にお茶会で呼ばれていると聞いていたが――なんで普段着なんだ?」
空気が一瞬で凍りついた――。
「「え?」」
アルフォンスとシグヴァルドの声が重なった。
リュミエールの表情がぴしりと固まり、心の中で悲鳴が響く。マリナは摘んでいたパンを指先からぽろりと落とした。パンは卓上を転がり、皿の端でぴたりと止まる。血の気が引いていく頬の色は、朝の白い光に溶けてさらに淡くなっていった。
ゼルガード公爵は唇の端にわずかな笑みを浮かべると、視線をさりげなく逸らした。その瞳に宿ったのは、はっきりとした危険回避の光。彼は、このお茶会の裏に潜む空気を即座に察し、近づくことを思いとどまったのだった。
やがて廊下から侍女たちが一斉に駆け込み、四人の周囲を取り囲む――。
「アルフォンス様、すぐに礼装のご用意を!」
「リュミエール様、髪もお整えいたします!」
「シグヴァルド様、こちらへ!」
「マリナ様……あの、お顔の色が」
四人はただ、状況に飲まれるままに席を立つしかなかった。思いがけぬ一日が音を立てて幕を開けた。準備は驚くほどの急ピッチで進んだ――。
執事と侍女たちの動きはまるで軍隊のように統率されており、衣装の選定から着付け、髪の整えまで一糸乱れぬ連携で進められていく。
男性陣――アルフォンスとシグヴァルドは、着替えにそれほど時間を要さず、すぐにラウンジへと送り出された。ゆったりとした革張りの椅子に腰を下ろすと、シグヴァルドは小さくため息をつき、低く呟く。
「完全に奇襲された……これは母上の仕業だ」
「公爵様にまで情報統制が及んでいるとは……ぐうの音も出ない」
アルフォンスは苦笑を浮かべながらも、軍務の現場を思わせる口調で戦況分析を口にする。
「足掻けば足掻くほど状況は悪化する。まさに典型的な――負け戦だ」
「その通りだな」
二人は諦めの境地に達し、出された茶を啜りながら、世間話で気を紛らわせるしかなかった――。
一方、着付けの最中にあったリュミエールは、すでに完敗を悟っていた。鏡に映るのは、新調されたばかりのドレス――夜会用に限りなく近いが、かろうじて形式上はお茶会用と呼べるものだった。
『このドレス、仕立てが一月で何とかなるものではないわ。いったい、いつから計画は動いていたの?……流れに身を任せる――それが最善手なのね』
侍女たちの手は止まらず、丁寧に仕上げの髪飾りがそっと差し込まれた――。
ラウンジで談笑していたアルフォンスとシグヴァルドの耳に、軽やかなノックが響き、「どうぞ」と許可を出すと同時に扉が開く。
入ってきたのは、リュミエールとマリナ。
二人の視線が交わると、時間が止まったように感じられた。絹の光沢が優雅に揺れ、淡い色合いのドレスは温かな陽光を受けて輝く。花のほのかな香りが空気を一層華やかに彩った。
言葉を失った二人に、背後から控えていたマティルダ公爵夫人がわざとらしく、「んんっ」と喉を鳴らす。その一声が、止まっていた時間を再び動かした――。
アルフォンスは慌てて立ち上がり、リュミエールへと駆け寄る。
「リュミィ……とても素敵で、言葉が出なかった。可愛くて――本当に綺麗だよ」
頬をわずかに染めたリュミエールは、小さく微笑み「ありがとう。アル……あなたも、かっこいいわ」とはにかみながら応える。
隣ではシグヴァルドも真剣な眼差しでマリナを褒め称えていた。
空気が落ち着いたころ、マティルダ公爵夫人が扉の外へ視線を向け「では、皆さんも」と、声を掛けて現れたのは、身なりを整えたティアーヌ――。
さらに、アルフォンスと同じ意匠の礼装を身にまとったレグルス、リュミエールとお揃いの可憐なドレス姿のミレーユが入室してくる。
双子は嬉しそうに笑みを浮かべ、胸を堂々と張っている。そもそも、味方はいなかった――。敗戦どころか戦の前に終わってる。その現実を悟ったアルフォンスは、静かに息を吐き、平常心を取り戻す。
やがて、玄関前に二台の馬車が用意された。石畳をゆっくりと進む二台の馬車は、冬の冷気を切り裂くように王宮へ向かっていた。
アルフォンスには違和感だらけに感じた――。
先頭の馬車には、シグヴァルド、マリナ、そしてミレーユとレグルス――若い顔ぶればかりが揃っている。後続の馬車には、マティルダ公爵夫人とティアーヌ、そしてアルフォンスとリュミエールとなっていた。
貴族の常識からすれば、子どもと大人、もしくは家族が同じ馬車に乗るのが自然だ。だが、今日の編成は、まるで意図的に二組を切り分けたかのようだった。
「アルフォンス、リュミエール。二人の婚約は国王陛下の裁可を得て、正式に確定したわ。こんなにも素敵な子が義娘になるなんて、まるで夢のようだわ」
ティアーヌが優しく微笑みリュミエールの手を包みこみ、「リュミエール、アルフォンスを選んでくれてありがとう」とティアーヌは、心からの祝福を二人へ静かに伝えた。
言葉を受けて、マティルダ公爵夫人が続ける。
「二人とも、おめでとう。共に戦場を駆け抜け、肩を並べた二人の婚約が決まったこと、私もとても嬉しい」
「これからは公の場でも、私のことは『マティルダ』と呼んでほしい。ゼルも許可を出してくれているし、義兄上の理解も得ているから」
二人は柔らかな笑みを浮かべながらも、気を引き締めていた。
「マティルダ様、これからもご指導のほど、よろしくお願いいたします」
「マティルダ様、アルフォンス共々、どうぞよろしくお願いいたしますわ」
アルフォンスはリュミエールに向き直り、真剣な表情で言葉を紡いだ。
「リュミィ、君と共に歩むことが、僕の一番の願いになっていた。これからも迷惑をかけることがあるかもしれないけれど、君となら幸せになれると確信している。どうか、これからもよろしく」
「アル、いつまでもあなたの隣に立ち続けますわ」
マティルダ公爵夫人は目を細めながら、そっと二人に微笑みかけた。
「二人の婚約は当分の間、公にはしない。今日のお茶会はクラリスが主催しているが、その場でシグヴァルドとマリナの婚約だけを正式に発表し、クラリスが見届けることになる」
王族が立ち会う婚約発表は、特別な意味を持つ。婚約に口を挟むことは、そのまま王家への不敬と受け取られる。
つまり、シグヴァルドの婚約に異議を唱えることを許さないという宣言であり、これはマリナを他家から守る意思表示でもある。
マティルダ公爵夫人は、到着後の注意点を説明し始めた。
「降車は、シグの方が先。あちらはレグルス、ミレーユ、シグヴァルド、マリナの順で正式なエスコートで降車となる」
「その後に、こちらの馬車。私、ティアーヌ、アルフォンス、リュミエールの順となる。アルフォンス、ちゃんとリュミエールをエスコートするように」
含み笑いをするマティルダ公爵夫人に対し、アルフォンスは頷く。
「シグたちと合流したらお茶会の会場に移動。途中、貴族たちとの会話は厳禁。最初に挨拶する相手はクラリスのみ、これは厳守」
「貴族に話しかけられても絶対に無視、いいわね?」
二人は頷いて応えた。リュミエールが小さく手を挙げる。
「馬車の移動、意図的な降車順。他家に対する通告と警告ですよね?」
「後は、宣伝ね」
ん? とリュミエールは小首を傾げる。
「ミレーユとレグルスのお披露目ですか。注目している視線の中で、二人を最初に降ろす。あの二人は、理解できないレベルでマナーを習得してますし、臆すことがない――目立ちますね」
「あの二人は、場にあった立ち振舞を選び取る感覚も驚くほどだぞ」
楽しくてたまらないとマティルダ公爵夫人は笑う。
ティアーヌが「マティルダ、そろそろ到着よ」と、声をかけるとマティルダは小さく頷き、向かいに座る二人に穏やかな視線を向けながら、口元を緩めた。
「――舞台は開く、主演は貴方たちよ」
アルフォンスとリュミエールは、自然と背筋を伸ばし、――二人の良き未来のため、気持ちを切り替え備える。




