閑話 西方の希望、北方の頭痛
盛夏の王都は、セトリアナ大河の豊かな流れとともに息づいていた。陽を受けた川面は白銀のように輝き、往来する船の櫂音と波のしぶきが真昼の光に混じり合う。水辺には子どもたちの歓声が響き、涼を求めて集う人々の姿が川岸を彩っていた。
川から続く石畳の大通りは、夏の喧騒に包まれていた。果実や冷やした飲み物を並べた屋台が軒を連ね、鮮やかな布地や薬草を売る商人たちの声が飛び交う。街路樹の青葉は陽を受けて揺れ、通りを行き交う人々の影を濃く落としている。
やがて視線を上げれば、街並みの向こうに白亜の城壁が姿を現す。高く澄んだ夏空を背に、王宮の尖塔が凛然とそびえ立ち、鐘の音と蝉時雨を抱きながら、王都の中心に静かな威容を示していた。
王都〈リヴェルナ〉 王宮――。
王の執務室に併設された会議室は、外光を遮る厚い帳により、昼でありながら薄暗く沈んでいた。壁際の棚には地図や古文書が並び、卓上の蝋燭の灯だけが三人の顔を浮かび上がらせる。日々の政を詰めるための実務の場――その空気はいま、異様なほど重たかった。
国王であるヴァルディス・フェルノート、宰相のグラディウス・アストレイン侯爵、そして宰相補佐官のジークハルト・マクシミリアン公爵子息。いつもの顔ぶれが円卓を囲んでいるのに、誰も言葉を発しない。視線の先にあるのは、一冊の報告書。その表紙に記された『西方大河』という文字は、見慣れぬ響きと共に、三人を黙らせていた。
この報告書の出所は、王国の北西部に広がるマリーニュ伯爵領。若き探索者による『西方探索』の報告書には、未知の地形、見慣れぬ薬草や鉱石、そして、王国の記録には一度も記されたことのない大河の存在までもが、克明に綴られていた。
報告書の上に手を置き、グラディウス宰相が低く唸るように呟いた。
「こうした地勢の発見報告は、先代陛下の代を含めても、ここ数十年は記憶にない」
王都に地理的発見の報が届くこと自体、稀有な出来事だ。最後に似た事例があったのは半世紀ほど前、隣国のグランツェン帝国が拡張政策を破棄した際に国境沿いの再編が通知されたとき以来の事態であった。とはいえ、既存の国境線を確定するための手続きであり発見とは大きく違う。
だが今回は、報告の質が大きく違った――。
マリューニュ伯爵領に住む一人の少年による探索が発端でありながら、その発見が王国の地勢そのものを塗り替える可能性を孕んでいたからだ。
グラディウス宰相は報告書を一度閉じ、ヴァルディス国王の方へ視線を移す。厳粛な表情が、この案件の重要性を物語っていた。
「陛下。主だった報告内容を三点に整理いたしました。今後の方針について、御裁可を賜りたく――」
「聞こう」
ヴァルディス国王の静かな声に、グラディウス宰相は落ち着いた口調で続けた。その声は会議室に低く響く。
「第一に、未確認の大河の存在です。これは地理的発見として最も重要であり、ノルド子爵領の港町よりさらに西方、海と繋がっている可能性がございます。水運網の再編、あるいは新航路の開拓に関わる案件かと――」
ヴァルディス国王の視線が、地図西端のまだ空白が残る領域へと向かう。軽く顎に手を触れ「王国の海路が、再定義されるかもしれぬな」と、思案するように低く洩らした。
「第二は、未登録の薬草と鉱石の発見。特に薬草は、既存の治療薬に対する代替素材としての価値が見込まれますし、新たなポーションが開発されるかもしれません。鉱石には魔力反応が強いものも含まれており、魔道具分野との関連性も検討が必要です」
ヴァルディス国王は「ふむ」としばし考え、「一度、学術局に回し、精査させるか……」と呟きながら手を組み、グラディウス宰相に顔を向けた。
「薬草や鉱石に関しては学術局に回せ。学術局での精査をした後、治療局・産業局への移管を検討するよう指示せよ。必要に応じて、予算措置を講じる手配も抜かすな」
その声音は落ち着いていながらも揺るぎなく、会議室の薄闇に澄んだ響きを残した。蝋燭の炎がわずかに揺らぐ中、王の指示は誰の耳にも疑う余地なく、確かな重みを帯びて伝わっていた。
グラディウス宰相は「はっ」と応じると、すぐに報告を続けた。
「第三は、現地の気候・植生・動物相に関する初期観測です。氷雪期が終わる時期にもかかわらず、河川の水流は強かったとの報告がございます。一帯には安定した水源が存在する可能性が高く、農業的価値や拠点開発の適地か否か、事務方による精査が求められます」
報告の切れ目に、室内はわずかに静寂に包まれた。ヴァルディス国王は小さく頷き、指先をそっと報告書の表紙に添える。
ヴァルディス国王は、グラディウス宰相からの整理された報告を静かに受け止め、それぞれの優先事項を頭の中で順序立てた。
「優先順位は、宰相の意見を妥当と認める。まずは大河の確認と地理調査を最優先とせよ。その上で、素材類の再検証と気候環境の長期観測を後続に置く」
ヴァルディス国王の声は落ち着いているが、揺るぎない決意を含んでおり、会議室の空気に確かな秩序を生み出した。
グラディウス宰相が「御意」と深く頭を垂れると、会議室の空気は一瞬落ち着きを取り戻した。そのとき、ヴァルディス国王はいたずらっぽく口元を緩め、わずかに微笑んだ。緊張に満ちていた室内の空気が、少しだけ柔らいだように感じられる。
「ところで、宰相。この報告書、若き冒険者とあるが――九歳で、冒険者登録はできたか」
グラディウス宰相はわずかに眉を動かし、渋い顔で答えた。内心の困惑が、表情の端にわずかに滲んでいる。
「十歳未満は、本来登録資格がありません」
ヴァルディス国王はわざとらしく「ふむぅ」と思案するふりをし、口元に微笑を残した。
「となると、これは誤記か、あるいは規定外の登録か――」
グラディウス宰相はわずかに眉を動かし渋い顔で、「確認いたします」と答えた。
グラディウス宰相の一礼を受け、王はさらに微笑を深めた。その様子は、宰相の反応をほんの少し楽しんでいるかのようにも見え、室内の空気は柔らかく揺らいだ。
ヴァルディス・フェルノート国王――
即位二十四年の国王は現在四十歳。十六歳で前国王から王位を押しつけられ、緻密な政務を誇り〈賢王〉として多くの国民から尊敬され親しまれている。そしてチャンスがあれば、時折こうした悪戯好きな一面を見せることで知られていた。
冷静な統治者として、王都と諸侯から信を得てきた男の心に最初に浮かんだのは、国家の未来でも地勢の変化でもなかった。遥かに個人的で、そして逃げ切れないことが分かっている面倒事。
『絶対に、あいつが絡んでくる』
あいつとは歳の近い弟、すなわち王弟であるゼルガード・マクシミリアン公爵のことを指す。地理探索、新発見、未開の地。あの男が好奇心を抑えられるはずがない。
『まったく、また厄介事を抱え込みに来るつもりに違いない――』
ヴァルディス国王はため息を呑み込み、重く静かに口を開いた。表情は再び統治者のそれに戻っている。
「西方探索の件は、宰相府主導で実施要否を再検討とする。ノルド子爵領よりさらに西方、現地調査の必要性について詳細な報告を求める。場合によっては、統治すべき領地が増えることも念頭にな」
グラディウス宰相が「はっ。国王陛下の勅命、確かに承りました」と応じ、再び深く一礼する。
フェルノート王国の西方――。
いまだ地図に描かれていない未知の領域。その地脈と水脈が王国にもたらすものは、希望か、それとも混乱か。
ただ一つ確かなこと――。
それは、このすべての始まりに、一人の少年の足跡があったということ。
ヴァルディス国王は報告書を静かに閉じ目を細める。
王たる者、常に威厳を保つ。――たとえ弟が面倒ごとを持ち込む未来しかなかったとしても。
2025/10/05 ヴァルディス国王の在位期間と年齢を修正をしました。
2025/10/04 加筆、再推敲をしました。閑話に登場人物を試験的に記載。
名前 : 役割/関係性 : 説明/特徴 (Gemini作+補筆)
■ヴァルディス・フェルノート国王 : 現国王/賢王/兄 : フェルノート王国の国王。即位二十四年、四十歳。緻密な政務を誇る〈賢王〉。冷静な統治者だが、時折悪戯好きな一面を見せる。西方探索の報告を受け、大河の地理調査を最優先とする方針を指示した。
■グラディウス・アストレイン侯爵宰相 : 側近/高級官僚 : 王の宰相。西方大河の報告を受け、その重要性を三点に整理して報告した。十歳未満の冒険者登録資格について困惑した。
■ジークハルト・マクシミリアン公爵家子息 : 宰相補佐官 : 宰相の補佐官。国王と宰相の会議に同席した。
■アルフォンス : 平民の少年/若き探索者 : 九歳。王国の北西部領からの探索報告書により、未確認の大河の存在など、王国の地勢を塗り替える可能性を提示した。
■ゼルガード・マクシミリアン公爵 : 王弟 : ヴァルディス国王の歳の近い弟。国王は彼が地理探索や新発見に好奇心を抑えきれず、厄介事を持ち込む未来を予期している。




