第一節 風の村、少年の記憶
フェルノート王国北西の果て、マリーニュ伯爵領の山深い盆地に、ミルドと呼ばれる小さな村がひっそりと佇んでいた。地図の隅に小さく記されるほどの、ささやかな集落だ。
周囲を峠と森に閉ざされ、馬車も通れぬ細道しかないため、この村を訪れるには、風と土の香りに包まれながら、自らの足で歩くほかになかった。
そんな村に、六歳の少年アルフォンスが暮らしている。
家名を持たぬ、平民の子である。
朝は窓から吹き込む風のささやきで始まる。父のジルベールが焼く香ばしいパンを頬張り、畑で草を引き抜きながら、水桶を抱えて小道を駆け抜ける。
昼にはジルベールと共に山へ分け入り、罠を仕掛け、獣の足跡を追う。狩人としての技術を少しずつ身につけていった。獲物の解体は、骨の位置を確かめ皮の感触を手に覚えさせ、夕暮れには水瓶を満たすため川の冷たい水に手を浸す。
そのすべてが、アルフォンスにとっての内の世界だった。
ジルベールは村一番の狩人。言葉少なで多くを語らぬが、その瞳は森の奥に潜む気配を見抜き、音もなく弓を引いて獲物を仕留める。村人たちは深く信頼し、その背をひとつの指標として仰いでいた。
母のティアーヌは現在、領都で調薬店を営んでいる。かつては王都でも知られた元冒険者で、治療師として活躍していたという。季節ごとに村へ帰ると、村人たちはどこかほっとした表情で迎えたものだった。
アルフォンスが五歳になってからは、月に一、二回ほどジルベールと共に峠を越えて荒野を抜けて領都までティアーヌを訪れている。
領都までの道のりは、五歳の頃には遠く果てしなく感じていた。ときおりジルベールの背におぶってもらいながら進んだ。
六歳の今は、おぶってもらうこともなくなり、荷物も多少ではあるが持たせてくれるようになった。
ミルド村を出ると、森に包まれた細い小道が、ゆるやかな傾斜で峠へと続いている。風がよく通る場所で、頬を撫でるたびに心が軽くなるような気がして、アルフォンスはこの小道を気に入っていた。
峠が近づくにつれて斜面は急になり、ジルベールの手を借りながら一歩ずつ登っていく。頂上近くで迎える夜は、村とは違う特別な時間だった。
石を積み小さな窯を作り、寝床を整える。非日常のその作業に、アルフォンスは胸を躍らせた。
峠を越えると、木々はまばらになり、荒れた斜面が広がる。やがて麓に降り立ち、二度目の野宿をすることになる。そこには細い小川が一本流れており、かろうじて水を汲める程度。乾いた土と冷たい風は、あまり心地よくなかった。
翌朝からは、荒涼とした平地をひたすら歩く。景色はほとんど変わらず、ただ地平線が遠くに揺れているだけの寂しい風景が続く。
もうすぐ母さんに会える――。
それだけが、重くなった足を前へと運ばせる力だった。
領都に着くと、まずは荷を軽くするために冒険者ギルドへ向かう。狩りで得た毛皮や牙、森で採った薬草や果実を乾燥させたものを、ジルベールが淡々と納めていく。
その間は、アルフォンスにとって待ちに待った串肉タイムだ。ジルベールの背から離れると、迷わずいつもの屋台へ駆け寄った。
アルフォンスの姿に気がついた串肉屋のおいちゃんが「おっ、アルじゃねえか。久しぶりだな」と、声を掛けてくる。
アルフォンスも元気に「おいちゃん、いつもの三本ちょうだい!」と応える。
「あいよ!――おまけだ!、今日は特大サイズにしてやる」
少し悪い顔をしたおいちゃんが誘いをかけてくるが、「それ、この前夕ご飯食べきれなくて怒られたやつ」とアルフォンスは怒られないように回避する。串肉屋のおいちゃんは腹の底から笑い声を響かせる。
「ははは! じゃあ今日は普通のにしとくか。ちょっと安くしてやるから許せよ」
香ばしい煙が、領都の喧騒に溶けていく。
焼きたての串肉を二本、紙に包んで大事に抱えるアルフォンス。一本は満面の笑みを浮かべながら半分だけかじる。全部食べると夕食のときに悲しくなることをアルフォンスは学習していた。
ジルベールが冒険者ギルドから出て「店に向かうぞ」と、声を掛け荷物を背負い直す。香ばしい匂いを漂わせながら、二人はティアーヌの調薬店へと歩き出した。
草花や薬草の香りに満ちるミルド村の空気とは違い、そこは石畳に反射する日差し、喧騒と人々のざわめきが漂う外の世界だった。
三歳のころ――。
ジルベールはアルフォンスに狩りの技を教え始めた。
剣の構え、身を守る体の使い方、石や刃を投げる技術。どれも森で生きるための技術だった。
「弓は身体の一部のように扱え。それができれば、森は応えてくれる」
ジルベールの言葉は静かに、確かに幼い心に刻まれた。
けれど弓だけは、どうしても手に馴染まなかった。弦の感触が身体に馴染まないせいか、狙いに集中しようとしても心がふわりと浮いてしまう。
代わりに自然と手に馴染んだのは、片手剣と、川辺で拾った滑らかな石だった。
ある日、試しに投げた石が、庭先近くの小枝を正確に打ち抜いた。それを見ていたジルベールは、ふと唇をゆるめて呟いた。
「また石か。お前は変わった子だな」
アルフォンスは肩をすくめて笑った――。
石が風を裂き、空気を縫って飛んでいく感覚は、弓よりずっと自然だった。
何より、投げた石に自分の気持ちが宿っている気がしたのだ。
村の西側には、果ての見えぬ森が広がっている――。
深く、静かで、道らしきものはなく、高く茂る木々は陽の光さえ斑にしか通さなかった。その奥に何があるのか誰も知らない。
アルフォンスは、風の音に耳を澄ませながら時折思う。誰も知らない場所とはどんなところだろう。自分の足で、たどり着けるだろうか。
未知の場所――。
風と葉擦れの音のなかに、そこに何かが確かに潜んでいる気がした。
一方で、ジルベールがかつて語った〈魔の森〉の名は、まるで別の響きを持っていた。
それは村から東方にある領都から北方にある忌むべき森。マリーニュ伯爵家が守るべきとされるその地の名は、ミルド村の村人たちの間でも時折囁かれていた。けれどアルフォンスにはあまりに遠く、現実味のない話に思えた。
現実味と言えば、五歳の春を迎えたころ――。
森の草花が一斉に芽吹き、色彩が世界に戻ってくる季節を向かえていた。
その日、アルフォンスはティアーヌの帰省を村の入り口で待っていた。手のひらを額にかざし、遠くの道を見つめる。風の匂いを何度も吸い込み、やがて森の向こうから人影が現れた。
革の鞄を背に、陽に透ける金茶の髪を風に靡かせながらティアーヌが現れた。
「ただいま、アル」
その声を聞いた瞬間、何かが弾けた――。
いや、正確には、それより前から、心の奥には違和感が芽吹いていた。誰にも言ったことはない。けれど、物心がつくころからずっと『ここではないどこか』を確かに知っていた。
草の匂いも、風の流れも好きだった――。
それでも、なぜかそのすべてが、既に知っているもののように感じていた。
五歳の春、ティアーヌの笑顔を見たその瞬間に記憶が――一気にあふれだした。
かつて自分は『別の世界』に生きていた。名前も、姿も違う誰かとして。剣を振るい、炎を放ち、巨大な獣と対峙し、仲間と笑い、涙を流した。
空を覆う多くの魔物が襲いかかるところで記憶が途切れる。鮮明な最後の記憶は『仲間たちと笑顔で分かれを伝えあう』というものだった。
現実味のない、けれど確かに胸の奥に残る記憶――。
それを前世と呼ぶには曖昧すぎたが、アルフォンスはその記憶を特別なものとは思わなかった。『ああ、そうだったんだな』と、そのままの記憶として受け入れた。最後に笑えたのだから、本望だったのだと理解した。
ティアーヌの胸に抱かれながら、アルフォンスは風の匂いを深く吸い込んだ。知らぬはずの草の名が、自然と心に浮かぶ。だが、それらを口にすることはなかった。
今の名を持つ自分として、生きていこう――。
そう、静かに思えたから。
その日以来、アルフォンスには不思議な記憶がひそんでいる。時折、頭の中でささやき声が聞こえることもあるが、ただそれだけだ。まるで、特別な夢を見た後のように。
とはいえ記憶の影響は存在した。ティアーヌが、「アル、落ち着きが出たわね」と笑いながら頭を撫でる程度には。物覚えが良くなった実感もある。
それでも、今日もまた風の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、風が通る小道をゆっくりと歩いていく。
ミルド村の男の子、アルフォンスとして。
風の匂いが、ほんのわずかに変わったその日、――運命の歯車は静かに、けれど確かに動き出していた。
2025/10/03 加筆、再推敲をしました。




