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童話

夢拾いのエミール


遥か彼方のエルウィンの森の奥深くに、エミールという名の少年が住んでいた。彼は人と異なり、夢の中を渡り歩くという奇妙な力を持っていた。

エミールは夢見ることをこよなく愛し、夢の世界は彼にとって、もう一つの素晴らしい世界だった。雲を突くほど高い城も、果てしなく広がる深い海も夢に見た。夢の中では、彼は自由に飛び回り、何でもできた。

しかし、エミールはその能力に悩んでもいた。夢から覚めるたび、夢の中の出来事をすべて忘れてしまうのだ。夢を記録しようと様々な方法を試したが、どれも無駄だった。

ある日、エミールが森を散歩していると、一人の老婆に出会った。老婆は彼に、「夢見の花」という花があり、それを使えば夢を記憶にとどめることができると教えた。

エミールは狂喜し、夢見の花を探し出す決心をした。彼は山を越え谷を越え、あらゆる困難を乗り越え、ついに隠された谷間で夢見の花を見つけ出した。

エミールは夢見の花を家に持ち帰り、大切に保管した。毎晩眠る前に、彼は夢見の花の香りを嗅ぎ、そして夢の世界へと旅立った。

それからというもの、エミールは二度と夢を忘れることはなくなった。彼は自分の夢を記録し、一冊また一冊と物語を書き上げた。それらの物語は奇想天外な発想に満ち、人々に深く愛された。

エミールは「夢拾い」と呼ばれ、その力で人々に喜びと希望をもたらした。

しかし、時が経つにつれ、エミールは満たされなくなっていった。彼は夢の中の素晴らしさに執着し始め、現実世界に戻りたがらなくなった。さらには自分の能力を利用し、他人の夢から美しいものを盗み取るようにさえなった。

ある日、エミールは夢の中で恐ろしい悪夢を見た。彼は永遠に逃れられない夢の中に閉じ込められ、周りはねじれた怪物や恐ろしい光景ばかりだった。

エミールは悪夢から飛び起き、汗びっしょりだった。彼は、もしこのまま堕落し続ければ、最終的には悪夢の中と同じ結末を迎えるだろうと悟った。

彼は自分を変えようと決心したが、どうすればよいのか分からなかった。

その時、聞き覚えのある声がした。「坊や、助けが必要かい?」

エミールが声の方を見ると、老婆が彼の前に立っていた。

老婆はエミールに、夢への執着を断ち切って初めて、本当の自分を取り戻せると教えた。

エミールは半信半疑で尋ねた。「どうすれば執着を断ち切れるのですか?」

老婆は微笑んで言った。「お前が最も恐れるものと向き合うのさ。」

エミールは目を閉じ、老婆の言葉をじっくりと考えた。

彼が最も恐れるものは、夢を失うことだと分かっていた。

しかし、もし夢に執着し続ければ、永遠に真の自由を得られないことも分かっていた。

そこで、彼は深呼吸をして目を開き、きっぱりと言った。「準備はできました。」

老婆は頷き、言った。「よろしい。では、始めようか。」

老婆の導きで、エミールは自分自身の内なる恐怖と向き合い始めた。彼は一歩また一歩と夢の奥深くへと進み、ついにあの恐ろしい悪夢の中へとたどり着いた。

エミールは周りの怪物や光景を見ても、恐れを感じなかった。それらは皆、彼自身の内なる恐怖が生み出した幻だと知っていたからだ。

彼は目を閉じ、精神を集中し、大声で叫んだ。「もうお前たちを恐れたりはしない!私はお前たちに打ち勝つ!」

エミールの叫び声と共に、悪夢の中の怪物や光景は消え始めた。ついに、悪夢の世界全体が砕け散った。

エミールが目を開けると、自分が現実世界に戻っていることに気づいた。

彼はかつてないほどの解放感と喜びに満たされた。彼は、自分の恐怖に打ち勝ち、ついに本当の自分を取り戻したのだと悟った。

それからというもの、エミールは夢に溺れることなく、真剣に生きるようになった。彼は自分の力で他人を助け、世界をより良いものにしていったのだった。


明転


夢の方がより現実的かもしれないね。夢の中では、私たちは現実で抑圧している部分を解放するのだから。

私はよくぼんやりしているのだけれど、それは、あなたたちがそんな私を見ても、私が攻撃的な意図で無視しているとはまず思わないだろうからだよ。もし誰かが直接尋ねてきたら、確かにあなたを無視していると答えるだろうね。でもそれは自己防衛のためなのだよ。

なぜなら、もし私が心から誠実にあなたと話し、一緒に何かをすれば、病的なほどにあなたを愛してしまうから。

だから私は縮こまって、私を見てくれる人を待つしかない。そして安心して、その人に身を委ねるのだよ。


暗転


『グリム童話』のようなロマンを、ついさっきまで私は守り続けていた。

そこの物語は『アンデルセン童話』ほど豊かではなく、中には『イソップ寓話』のように簡潔で教育的な意味合いを強調し、ただ主人公が動物から少年少女に変わっただけのものもある。

マッチ売りの少女は不幸だった。初めてこの物語を聞いた時、あまりに感情移入してしまって、涙がぽろぽろと止まらなかったのを覚えているよ。二度目に自分でこの物語を読んだ時は、もう結末を知っていたから、最初からどうすれば彼女を少しでも幸せにできるか考えていた。グリム童話のように「その後ずっと幸せに暮らしました」とまではいかなくても、せめて平穏無事に余生を送れるようにとね。

でも、この物語は一言一句変えられない。ましてやあの不幸な結末はなおさらだ。少女は優しく純粋な心を持っていたし、同時に、その年齢で最もすべきことをしていた。あんな年齢の子供が、今のすべてを投げ出して人生をやり直せるような方法を見つけ出すなんて、私には想像もできない。

マッチを売ることよりも、蝋燭の光の中で憧れや願いを抱くことこそ、彼女がすべきことだったのだ。彼女はほんのささやかな満足に幸せを感じていた。それは身につけた心境として、なんと尊いことだろう。

まさにこうして、何の理由もなく、時代が彼女を罰したのだ。

最後に、彼女は幻の中の幸せを手に入れた。それが彼女が唯一勝ち取れるものだった。私には何もできない。この結末を受け入れるしかなかった。

これが私が社会の不公平について考え始めた原因ではないけれど、言いたいのは、あの時、いつもなら「その後ずっと幸せに暮らしました」という言葉に自然と自分を重ねていた私が、この時ばかりは誰にも感情移入できなかったということだ。せいぜい祝福の言葉を送ることしかできなかったけれど、それは一体誰に届くのだろう?

彼女を救うことだけが、私の心に応えをもたらすのだろうか。

もしそうでなければ、心には空虚だけが残る。

あなたを愛したい。あなたを愛した時、私は必死に記憶の中の全ての人と対話しようとする。

彼らに言いたいのだ。「私はあなたを見ているよ」と。

だから今日も私は笑顔で、善意を解き放ちながら生きたいと思っている。

私はいつもそこにいたのだ。たとえかつて、自分を隠して誰も私を見てくれないと不平を言っていたとしてもね。


明転


童話の次の段階はシリアスな小説だね。私の知識が増え、心も成熟したとはいえ、登場人物たちのやるせなさや不可解な状況を見ると、やはりマッチ売りの少女に対するのと同じような気持ちで彼らを見てしまう。時にはそれを優越的な態度と呼ぶべきかもしれない。

彼らがどんな境遇にあろうとも、理性は彼らにもっと幸せになる力があり、自分の心の赴くままにさらに一歩踏み出せるはずだと告げる。

あなたたちには悲しむ理由が山ほどあるのだろう。でも、その悲しみを勝手に守り、広め、さらには伝承するなんて、それはどれほど自己中心的なことだろうか?

私が愛を見つけられず、愛されるきっかけだと思い込んでいるものを必死に守っている時、あの独り善がりな人たちは愛を湯水のように浪費し、さらにはその存在や意味さえ否定するのだ。

ああいう人たちのやるせなさを現実だとかシリアスだとか言うけれど、むしろそれは恐怖と逃避のための気晴らしや娯楽と呼ぶべきではないかな。


暗転


私こそが、そういう人間なのだ。

たとえ無関心を装っても、いや、静観し干渉しないというのは理性的な思考から導き出された結論だ。だが、この不作為こそ、私には到底受け入れられない。

もし神を信じる人が、内なる原罪の意識ゆえに慎重に生きているのだとすれば、私も信徒なのかもしれない。心に思うのは、最初の人類、あの祖先たちが永遠の幸福ではなく禁断の果実を独り善がりに渇望したこと。そして、地上に追いやられ、生きるために懸命に働かなければならなくなった人々が、また天国の安寧に憧れるということだ。

そうだよ、私にはこの独り善がりな善意を止めることができないし、愛を解き放ちたいという衝動を抑えられない。たとえ神が理性を通して、この愚かな偽善をやめよと私を諭したとしてもね。

もし私にこの棚ぼたのような富がなかったら、筆を走らせてあらゆるドラマチックな情景を目の前に描き出し、華麗な言葉で自分の無能さを埋め合わせるしかなかっただろう。そして、たくさんの登場人物を紙の上に生き生きと描き出し、彼らのとてもとても良い友達になりたいと願うだろう。

でも今は、お金と少しの工夫で、それを目の前で実現できるのだ。


明転


私は自己中心的だよ。体制に深く縛られている人たちを、私は助けたいとは思わない。これは少し傲慢に聞こえるかもしれないけれど、言い換えれば、たとえ多くの人がその体制から抜け出して自分自身を見つけたいと渇望していても、私は彼らを助けたいとは思わない。彼らは結局妥協するだろうし、それは別に悪いことではない。以前私が言葉で伝えたように――「虚学」に心から興味を持つ人はほとんどいないし、「実学」を心から愛する人もほとんどいない。正直なところ、もし受験勉強やその対策、教科書の内容を心から愛し研究している人がいたら、私は心からその人を認め、高い敬意を払うだろう。でも実際にはそんな人はいない。だから、ああいう人たちは精神を消費財のように扱い、感情を得ることで心のバランスを取っているのだ。


こんな風に突然話が変わるのは興醒めだね。もし母のことを思い出さなかったら、どうしても彼女を救えなかったことを思い出さなかったら、以前の計画には何の障害もなかっただろうに。


私は偽善的な人たちが本当に嫌いだ。ここでの偽善とは、社会で役割を演じ、社会のルールに従って行動することではない。それは善いことだ。この偽善は、臆病さと自分自身の存在への恐怖に根差していて、だから一連の無意味な感情に頼る。ゲームそのものは新興の第九芸術として、あの汚れた営利市場によってどんな有様にされてしまったことか。人々の欲望や比較欲に付け込んで、これらのものは感覚刺激を追求する以外に何もない。これは効果が少し劣り、副作用がそれほど大きくない精神安定剤のようなものではないか?


人々は「実学」に思考を費やしているつもりでいるけれど、それも思考と呼べるのだろうか。受験の方法や出題パターンを本当に体系的に研究している人がどれだけいるというのだい?

もちろん、理性が唯一の道ではない。でも、一日中感情に溺れていながら、自分は感受性が豊かだと信じ込んでいる人たちのことは、私には理解できないよ。

大体において、これは社会の大部分の人々に当てはまる。私はこれらのこと全てを否定しているわけではないけれど、確かに否定している部分はある。それは、そのような状況にありながら常に不平を言ったり、進歩しようとしなかったり、自分に言い訳をしたりする行為だ。

もちろん、私には多くの人に適用できる具体的な改善方法など提供できない。どうせ適応してしまえば変えたいとも思わなくなるだろうし、これに善し悪しもない。本当に社会を動かしているのはごく一部の人だけで、残りの大多数は社会の運営を維持しているに過ぎない。後者は確かに必要だけれど、誰か一人が欠けたところで誰も惜しまないだろう。


私は成長期に、破壊するだけで何も築こうとしないやり方で私に接してきた人たちを怨んでいる。あの傲慢な悪人たちは、私に偽りの安心感を無理やり与えてきたけれど、私はようやくそこから抜け出すことができた。

今、私の手には彼らが一生想像もできないほどのお金があり、彼らとは全く異なる思想を持っている。

あの権威たち、私を教育する力を持っていた人たちはようやく去り、私はついに理解した。どんなに優れた思考モデルも、権力を用いない限り、一人の人間を理解するためには役立たないということを。

経済的な依存関係が生み出す権力、意識を形成する関係が生み出す権力、親密な関係を続けるか否かの権力。

これらのものが、人々を次第に抽象化された自己、社会や他者によって要約されてしまう自己へと妥協させ、その結果、真の自己は滅亡へと向かうのだ。

社会はこれほど多くの真の自己の存在を許容できないし、人々はいつも私たちと彼らとを絶えず区別したがる。だから私が見ているのは、一面の灰色と死のような静寂だ。

無数の固定観念と同調圧力のもとで、全ての真実は泡と消え、熱狂と騒乱の犠牲品となる。

でも、人間の適応能力と麻痺しやすい傾向は常に明らかで、誰も誰なしではいられないわけではないし、誰も誰に対しても責任を負わない。

本当に馬鹿げている。なぜ私が彼らの言うことを聞かなければならないのだ?彼らが私の人生に責任を持ってくれるのかい?それとも私の苦しみを彼らが肩代わりしてくれるのかい?

いや、彼らがいつも強調するように、社会では常に自分自身が自分に責任を負うのだ。彼らは元々私の視界に現れるべきではなかったのだよ。

もし望む意味がないのなら、絶えず失敗を避けることを学び続けることに何の意味があるのだろう?

慰められるのは、彼らがまだ私に対して「君はこういう人間で、こういう結末を迎えるだろう」とまで言ってくるわけではないことだ。

だから、ただ口うるさく過ちを避けるよう諭すだけ。これはあまりにも狡猾ではないだろうか。


本当は母のことを考えようと思っていたけれど、その前にまず昨日の自分について考えてみよう。

試験が終わって危機感が薄れてからというもの、自分は欲望の赴くままに、ロマンチックに生きることを夢想していた。

私はあんなにもゲームの楽しさに浸っていた。あの対戦ゲームは、正直に言って非常に功利的で、ただ相手を打ち負かすことで得られる、時代精神には合わないけれど弱肉強食の原則には合った快感のためだけのものだった。

私は大多数のプレイヤーと同じで、そこには何のストーリーも内容体験もなく、キャラクターデザインや構図の細部を鑑賞することもない。唯一の核心は、仮想空間における実際の傷つけ合いだったのだ。

不思議だね。どうしてこれまで全く興味を持てなかった私が、こんなにも互いに比較し攻撃し合うゲームを好むのだろう。まるでそれが私に与えられたキャラクター設定であるかのようだ。

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