天竺葵の咲く頃に
母親の名前は一条鈴香です
渚が、あの家に戻ってきたのは、澪がいなくなってから三日目の夜でした。
玄関のドアを閉めた音が、妙に硬く響いて──私は、炊事の手を止めました。
「……おかえりなさい」
けれど返事は、ありませんでした。
背を向けたまま階段をのぼっていく足音。
その背中に、何と声をかけてよいのか分かりませんでした。
正直に申し上げて、私はあの子の心が分からなくなっていました。
昔はもっと、素直な子だったはずなのに。
思春期のせいなのか、それとも──私のせいなのか。
ふと、澪の部屋から風鈴の音がしました。チリン……と、風もないのに鳴る、あの音が。
私は、もう二度とこの家が、元に戻ることはないのだと、思い知らされたのです。
食卓には三人分の茶碗を並べてしまう癖が、抜けませんでした。
誰のためともなく煮た煮物が冷めていくのを見つめながら、私は幾度となく「もう要らないのよ」と心で繰り返しました。
けれど──心は、言うことを聞いてくれません。
あの子の好きだった人参の飾り切りを、手が勝手に作ってしまう。
渚に話しかけようとしても、あの子はいつも部屋にこもっていて。
「お兄ちゃん、ママのことよろしくね!」
澪の無邪気な声が、記憶の底で何度も響きます。
……あの子は、ずっと、私たちを繋ごうとしてくれていたのに。
なのに私は、何もかもに追いつけずにいました。
ある日、渚の部屋から微かに音が漏れてきました。
──カセットテープの、ノイズ混じりの録音。
私には聞き取れませんでしたが、きっと、あれは澪の声だったのでしょう。
私は階段の下で立ち止まり、そのまま動けませんでした。
許されるのなら、扉の向こうで一緒に泣きたかった。
でも私は、渚にとって「話しかけづらい人」になっていた。
どうして、こうなってしまったのでしょうね。
私は母親で、あなたは私のたった一人の息子で。
それだけのことだったのに。
──本当に、ただそれだけのことだったのに。
数日後の朝、渚が玄関先で靴を履いているのを見かけました。
風鈴を持って、少しだけ迷うような顔をして。
「どこへ行くの?」と問いかけようとしたけれど──口が開きませんでした。
私は、ただ、ドアが閉まる音をまた聞いて。
その静けさの中で、小さくつぶやきました。
「……いってらっしゃい」
それは、ようやく言えた、初めての送り出しの言葉でした。
その夜、ふと風が吹いて、廊下に吊るされた風鈴が鳴りました。
思い違いかもしれませんが──
その音はまるで、誰かが「ありがとう」と言っているように聞こえたのです。
「……澪のこと、少しでも近くに感じられるのなら──」
私は、ひとりで紅岬社を訪れました。
手には、澪の遺影ではなく、彼女が最後まで大切にしていた風鈴。
家の片隅に掛けたまま、ずっとしまえなかったあの子の“声”。
境内は静かで、季節外れの風が、木々を優しく揺らしていました。
石段を上がり、本殿の前で深く頭を下げると、不意に、あの子の笑顔が浮かんできます。
──「お母さん、神社って、風が優しいね」
「……ええ、そうね。今日も、澪の風が吹いているのね」
目を開けると、少し先に──渚が立っていました。
ひとりで、風の間の扉の前に。その背中は、あの子を失ってから何度も見てきた、痛ましいほどの孤独を纏っていて……けれど、今は、少しだけ違って見えました。
私は、言葉を選びながら、そっと近づきました。
「……渚。ここに来てくれて、ありがとう」
彼は、振り向かずに小さく頷きました。
「風鈴……澪の、ね。あの子の想い、まだここに残っている気がするの」
「……うん。聞こえた気がしたんだ。夢の中でも、現実でも。……“やっと、泣いてくれた”って」
その言葉に、私は胸を突かれました。渚は、ずっと一人で泣いていたのだと。
家でも、学校でも、そしてここでも──私の知らない場所で。
「ごめんなさい。あなたの悲しみに、向き合ってあげられなかった」そう言って、私はようやく彼のそばに立ちました。
「私も、澪のことで……怖かったの。ちゃんと向き合うのが。あなたを見るたび、あの子のことを思い出して……逃げてたのね、ずっと」
渚が、静かに目を閉じました。そして、ぽつりと。
「俺も……母さんと話せなくなったの、逃げてたから。自分のことばっかりで」
──風が吹きました。
木漏れ日が揺れ、風鈴が、ひとつ、澪の音を響かせる。
その透明な音に導かれるように、私たちは、ようやく向き合って──
「泣いてもいいのよ、渚」私はそっと手を伸ばしました。
その手の中に、初めて、彼の震えが伝わってきました。
「……ごめん」
「いいの。もう、いいのよ」
互いの肩に、小さく降り積もった孤独が、風にさらわれていくようでした。
そのとき、私の耳にも、確かに聞こえた気がしたのです。
澪の声が、遠く、やさしく。
──「お兄ちゃん、ママ、よかったね」
社を出たとき、境内は夕日に包まれていました。
風に乗って、天竺葵の香りがわずかに流れてくる。
あの子の、好きだった匂い。
これからは、二人で思い出せばいい。澪のことも、風の音も、今日の空も。
──もう、怖くない。
それからの日々、少しずつ、季節が巡り始めました。
家の中の空気は、以前よりも穏やかになったように感じます。
渚と交わす言葉も、ぎこちなさは残るものの、確かな温度を帯びていました。
ある日、私は庭に、小さな天竺葵の苗を植えました。
あの子の好きだった、あの花を。
あの日の“お花見”で見た、夢のような景色を、現実のこの家にも──と。
「……ここで、咲いてくれるかしら」
独り言のようにそうつぶやいたとき、背後から静かな足音。
渚が、土で汚れたシャベルを持って、私の隣にしゃがみこみました。
「水やっとくよ」
短く、でも優しい声。
私は黙って頷いて、その姿を見つめました。
風が吹きます。ふと、軒先の風鈴が、澪の声のように鳴りました。
──チリン
私たちは同時に、風鈴の方を見上げて、そして──笑いました。
もう、あの子はここにいない。けれど、風の音に乗って、花の香りに紛れて、
きっと今も、私たちのすぐそばにいる。そんな気がしたのです。
「ママ」
不意に、渚がそう呼びました。
久しく聞いていなかった、けれど一番嬉しい響き。
「……ありがとう」
涙が、またひとすじ、頬を伝いました。でもそれは、悲しみではなく。
何か大切なものが、やっと少しだけ、報われたような──そんな涙でした。
空を見上げると、柔らかな夕焼けが広がっていました。
「……空がきれいね」
ええ、ほんとうに。
──きれい。
そしてその空の向こうに、きっと、あの子も見ているのでしょう。
「澪。咲いたら見に来てね」
小さな天竺葵の苗が、風にそっと揺れました。
いやあ、番外編にしては長くなっちゃった……………
まあ書いてて楽しかったので良しとしましょう