空がきれいだから
話すことない………
夜が明ける前に目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込むわずかな月明かりが、天井に薄い影を作っている。
息を吸うたび、胸の奥が痛んだ。夢の余韻か、それとも──ただの寒さか。
机の上のノートは、昨日と同じページで開かれたままだった。
澪の筆跡。少し丸くて、強く書かれた“やくそく”の文字。
触れれば消えてしまいそうで、閉じることができなかった。
時計の針は、まだ朝の四時を指している。
けれど、眠る気にはなれなかった。
ふと、机の引き出しから引っ張り出した古い箱。
中には、小さな録音用のカセットテープが数本。
「兄と妹のラジオごっこ」と、澪がふざけて書いたラベル。
懐かしいと思う前に、心の奥に何かが沈んだ。
これは、戻らない時間の音。触れてはいけない過去のかけら。
けれど、手は自然とプレイヤーを探していた。
カチリ──
機械音とともに、テープが回りはじめる。
『……えー、おはようございます。渚さん、起きてますか〜? 本日のパーソナリティは、妹の澪です!』
まだ高くて、元気すぎるくらいの声。
眠たい声の俺が、それに文句を言う。
『やめろよ、朝から録るなって言っただろ』
『でもお兄ちゃん、これ将来聞いたら笑えるよ? ……たぶん。』
笑えなかった。
けれど、その声に、自然と呼吸が重なる。
「もう、お兄ちゃんってば〜!」
くすぐったそうに笑いながら、渚の腕に軽くもたれかかる澪。
渚も思わず、つられて——
その口元が、わずかにほころぶ。
……けれど。
「——っ」
笑いかけたその瞬間、自分が“ひとりでいる”ことに気づいてしまう。
クッションの隣に澪はいない。
腕に感じた重みも、ぬくもりも、ただの幻。
目の奥がつんと熱くなる。
笑おうとした顔のまま、固まって動けなくなった。
……もう一度、会いたいと思った。
あの日のままの声に、手を伸ばせたなら。
その想いが、再び風を呼ぶのだと、このときはまだ知らなかった。
いつの間にか母が帰ってきて、夕食の準備をしていた。
呼ばれて、下へ降りる。
「ハンバーグ、澪の好きだったでしょ。……渚も、よく食べてたじゃない」
俺は何も言わず、黙って立ち上がる。
背後で、箸の音が止まった。
あの頃は、あったかかった
でも今、母の味噌汁の匂いさえ、遠く感じる。
家にいるのに、帰ってきた気がしない。
「………食べないの?」
無言でうなずき、部屋に閉じこもった。
これで3日目。学校をサボり続けている。行く気なんて、出てこないから。
その夜遅く。机に突っ伏していたまま、うたた寝をしていた。
ふと目を覚ますと、ドアの前にそっと置かれたお盆。
のせられていたのは、湯気の消えかけた味噌汁と、焼き魚と、そして──
澪の好きだった、たまご焼き。
俺は無言でそれを見つめた。
手を伸ばす。
けれど、すぐには食べられなかった。
ただ、
母が何も言わずに置いていったという、その事実だけが、胸に刺さっていた。
(……なんで今さら)
そう思いながらも、
澪の席だけがぽっかり空いていた、あの日の食卓がふと脳裏に浮かぶ。
箸を手に取る。
一口だけ、たまご焼きを口に運ぶ。
やさしい味が、喉をすべっていった。
何も変わっていないはずの味なのに、涙が出そうだった。
深夜。
テレビの音もない、静まり返った居間。
母はテーブルで、澪のアルバムをめくっていた。
ページの端をそっとなぞる手の動きが、どこかおぼつかない。
台所に水を飲みに来たつもりだったが、足が止まった。
「……この写真、覚えてる?」
母がぽつりと声をかける。
開かれたページには、紅い花の丘で撮った一枚。
渚と澪が、ふざけてお互いに泥だらけのスニーカーを見せあって笑っている。
黙って頷いた。
「この日、澪ったら、お兄ちゃんの真似して、転んだのよ。ふふ……」
笑った声は、すぐにしぼんだ。
写真に目を落としたまま、母はそれ以上何も言わなかった。
渚何も返せなかった。
同じ記憶を見ていても、同じ気持ちにはなれなかった。
その沈黙が、二人のあいだに深く横たわっていた。
夢をみた。
「……なんか、みんなピリピリしてたよな、あの頃」
俺がぽつりとつぶやくと、隣に座る澪がふふっと笑った。
「しょうがないよ。低気圧のせいだもん」
「……は?」
「怒ってるのも、イライラするのも、みーんな低気圧のせい。便利でしょ?」
いたずらっぽく笑うその顔を見て、俺もつられて口元をゆるめる。
「その理屈なら、世界平和も天気次第だな」
「そうなの!だから、空がきれいだとね……」
澪は小さく空を仰ぐ。
夢の中の空は、どこまでも青くて、風がそよいでいた。
「つまり私は勝ち」
自信満々に宣言して、得意げな笑顔。
「何に勝ったんだよ」
「うーん……きっと、昨日の私とか?」
「適当すぎだろ……」
でも、返事をしながらも俺の心には、不思議な安心感が広がっていた。
空がきれい。
だから、澪は今日も“勝ち”。
だから、この夢の中の時間だけは、まだ“穏やか”だ。
──目が覚めるまでの、ほんの少しの間だけ。
「ねぇ、お兄ちゃん?私の風鈴、不思議なオーラ纏ってると思わない?」
次の更新は…明日か明後日です。多分。