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怪盗を待ちながら  作者: 音羽夏生
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若草館 Ⅱ

 放っておくつもりだった予告状が、如月の日常に大きな波紋を立てている。次々に生じる小波(さざなみ)は、次第にその範囲を拡げていた。

 如月個人から仁礼を巻き込み櫻家へ、そして真鍋家へ。そこで波紋は消えるはずだった。『若草館』建築時の資料にすべて目を通し、家屋にも庭にも当時問題はなかったことを確認できたのだ。

 警察へ届けた予告状に記された犯行予定日まで、あと五日。仁礼が客間に陣取り、彼の護衛が警備に立ち、外出はアストン・マーティンという以外、いつもと変わらない日常――のはずだった。

 仁礼とは違い平民の如月は、社交界とは縁がない。正確には、可能な限り近寄らないようにしている。外出は大学と自宅の往復だけで、衆目を集めるようなことは一切していない。それなのに、近頃社交界で如月の名をよく耳にすると教えてくれたのは、自身も一、二を争う人気を誇る独身男爵だ。


「当世三美人に対抗して、三美男子を選ぼうという動きがあるのさ。櫻家の女性陣は、前途有望な英国帰りの学者という名目で君を絶賛売り出し中だから、そこに三美男子の肩書きを付け足すべく、さりげなく話を広めているようだ」

「伯母さん……!」


 伯父である櫻侯爵はもとより、侯爵夫人の伯母も扱いに注意が必要な人物だった。

 初孫とあまり歳の変わらない甥を非常に可愛がっており、如月も伯母を敬愛しているが、頼まれるままうっかり社交の場に付き合おうものなら、珍しい孔雀を連れているかのように振る舞われる。引き立て役だけならお安い御用だが、良家の子女との縁談をまとめようというのが真の目的だから、如月は敬遠せざるを得ない。


「無駄な努力だと、そろそろ理解してくれないかなあ。僕は華族じゃないし、俸給も薄い大学教員の端くれに過ぎないのに。――それより、三美男子というのは誰が言い出したんだい。勝手に名前を出されても迷惑なんだけど」

「美を愛する同志たちだよ。勿論真鍋さんは君に一票入れている。同じ嗜好の持ち主は、みな君に入れているようだ」

「……美術愛好家の秘密倶楽部なんて、本当に碌なものじゃないな!」


 悪態に背を向け、手のひらをヒラヒラさせながら仁礼は出勤していった。

 如月の他には、人気役者と仁礼の名が挙がっているという。旧友も同じ見世物になっていることに、如月は少しだけ溜飲を下げた。しかし彼と如月の評価には、非常に大きな違いがある。

 仁礼は、従属し奉仕したい美形。如月は、従属させ愛玩したい美形。耽美主義者たちは、そう宣っているらしい。「確かに君は首輪が似合いそうだ」と仁礼に言われた時には、(おぞ)ましさのあまり卒倒しそうになったが、そんなのは変態の思考で、自身に過失があるわけではないと如月は証明したかった。


「――柳君。君、人間を飼育したり愛玩したりしたいって、どう思う?」


 今日は大学の講義はなく、二人で昼食を摂りながら、如月は訊ねた。まずは、身近なところで如月をよく知る人物の意見を聞きたかったのだ。

 風変りな質問にも表情を変えず、柳は淡々と答えた。


「語弊を恐れずに言えば、僕は先生の生活一切の面倒を見てるわけですから、飼育してるとも言えます。しかし可愛いとはまったく思わないので、愛玩はしていません」


 主人に対しても歯に衣着せぬ物言いを躊躇(ためら)わない柳の反応に、時々鋭く斬り付けられている如月だが、今日は心の中で快哉を叫んだ。


「君の意地悪さに救われる日が来ようとは」

「何ですって?」

「ごめん、やさしさの欠乏と言うべきだった。訂正するよ」

「なるほど、先生がそのようにお考えなら、おやつにプリンを作ろうと思ってましたがやめておきます。

へやさしさが欠乏しているので」

「柳君!」


 如月は絶望した。柳が作る、焦げて少し苦いカラメルも、()の入らない完璧になめらかなプリンも、実に如月の好みで他では食べられない絶品なのだ。しかも蒸し器の前でずっと見張っていなければならないからと、よほど時間があり、さらに気が向いた時しか柳は作ってくれない。


「そうやって目を潤ませてると、可愛い愛玩動物に見えないとは言えない気もしますね。……だから涙目になるのはおよしなさいって」


 冷徹な柳にまで愛玩動物の素質を指摘され、如月は絶望のドン底に陥った。事務的を通り越して、時に冷笑的に主人に接するのが常の柳に可愛いなどと思われたら、如月は万民の愛玩動物に確定してしまう。


「僕が悪かった。君はよく気がついてやさしい、的確な観察眼の持ち主だ。だから間違っても僕を可愛いなんて思わないでくれ。これからもずっと邪険にしてくれ」

「先生、被虐趣味(マゾヒズム)に目覚めたんですか。まあ、お好きにしたらいいけど、僕を巻き込まないでくださいよ」

「……難しいな……君に欠けているものを言葉にするのは、実に難しい……」

「語彙の欠乏は、英文学者としても翻訳者としても致命的ですね」


 鼻で笑うと、柳は片付けに席を立った。

 その時、玄関で呼び鈴が鳴り、二人は顔を見合わせた。


「仁礼様でしょうか」

「早く帰るとは聞いていないけど」

「お昼、済ませてくれてるといいんだけどなあ」

 

 片付けは一度で済ませたいのに、とぶつぶつ言いながら迎えに出た柳は、思わぬ人物を連れて戻った。鳴坂署の竹井警部だ。

 応接間に場所を移し、如月は向かい合うソファを勧めたが、どっかり腰を掛けた竹井は明らかに不機嫌な顔をしている。


「今日はどういったご用件ですか。予告状の続きは来てませんが」

「どうしてもう一枚の予告状を隠した」


 唸るように詰られ、如月は片手で目元を覆った。話が警察に洩れたのだ。

 一昨日櫻は、真鍋の素性と二ヵ月前の事件について確認しておくと言っていた。旧友の警視総監に依頼するだけで、事を荒立てないように口止めするだろうと如月は思っていたが、こうして刑事がやって来たということは、そうした配慮はなかったのだろう。


「隠したわけじゃないですよ」


 あの伯父はやはり喰えない、と如月は肩を落とす。戦国の世も幕末も御一新後も、あらゆる動乱期を乗り越えて権力の座を保つ家の怪物に、如月如きが敵うはずがないのだ。手元での保護を諦めた時、櫻は警察に家ごと如月を警護させる心算(こころづもり)でいたのだろう。

 相変わらずマントルピースの上に放置したままのカードを(つま)み上げ、如月は竹井に手渡した。ざっと目を走らせた竹井の顔は、心なしか強張っている。


「竹井さんだったら、こんなものを警察に届けますか? 桜を頂戴する、とだけ書いてある紙を? 金銭的価値のある宝石の盗難予告だから警察も動くのであって、珍しくもない桜の木一本のために人員を割くほど暇ではないでしょう」

「それはこっちの決めることだ。桜にもあんた自身の持ち物にも価値がなくても、あんたの血統は只事じゃない。――『櫻』ってのは、あんたのことじゃないのか」

「母の旧姓というだけですが……そうだとして、何か問題でも?」

「……わかってるのか、あんたが狙われてるのかもしれないんだぞ!」

「騒々しいな、しかも外には無粋な輩が(たむろ)してるじゃないか。――ああ、これは刑事さん」


 突然ノックもなく、仁礼が応接間の扉を開いた。いつもより随分帰りが早い。

 柳が知らせたにしても早過ぎる登場に、この旧友は警察にも手懐けている人間がいるのではないか、と如月は胡乱気に見遣った。


「仁礼恭一郎……? 何であんたがここにいる」

「住み込みの用心棒ですよ、臨時の」


 仁礼から視線で促され、面倒に思いながらも如月がこれまでの経緯を説明する間、竹井は仁礼を睨み付けていた。


「こないだもらった名刺から、あんたのことは調べさせてもらった。仁礼商会のやり手社長で、新華族の男爵様。櫻侯爵にも取り入ってるとは、商売上手ってのは噂だけじゃないようだな。――実に都合良くこの家に入り込んだもんだ。もしあんたが犯人なら、疑われることなくやりたい放題ってわけだ」

「確かに。しかし桜といって、この家で何を盗もうというんです? この私が?」

「悪かったね、どうせうちに盗まれるような美術品はないよ」


 桜の下にも何もないようだし、と如月は少々残念そうに付け足す。もしも忘れられた財宝があったなら、震災で焼失した母校の図書館の蔵書購入に充てたいと、割のいいことを考えていたのだ。

 そして、十分な資産を持つ著名な実業家の仁礼に、世間を騒がせる盗みを働く動機はない。


「所詮お坊ちゃんのあんたにはわからないかもしれんが、この世には、それが人命であれ財産であれ人生であれ、他人のものを奪うことに悦びを感じる人種がいるんだ」

「はあ、傍迷惑な人がいたものですね」

「まったく同感だ。それに、予告状を出して警察(おれたち)と対等の勝負をしたいって考えるタチの悪い犯罪者もいる。胸糞悪いが、それが奴等の美学なのさ」

「不合理で、不確実で、無駄が多いのが、美学……?」


 如月は、猫が臭いものを嗅いでしまった時のような反応を見せた。

 また美学――手前勝手な自己陶酔の美学だ。

 欲するもののためなら常軌を逸してもいいとか、困難な目的を果たすための手段が不合理で、不確実で、無駄が多いとか、その対象に過度に昂奮し拘泥する者は、皆ある種の異常者なのかもしれない。


「奴等の美学など糞食らえだ。思い通りにはさせない。警視庁の威信にかけて、この家の敷地から髪一本たりとも持ち出されることのないようにと、警視総監直々のお達しだ。今から犯行予告当日まで、交代で二十四時間張り込ませてもらう」

「間に合ってますから、どうぞお引き取りください」


 即座に断ったのは仁礼だった。

 櫻から如月の警護を任されているという自負があるのだろうが、こうして警察にバレた以上、警護を離れて元の生活に戻った方が、彼のためなのではないか。如月はそう思ったが、帝国ホテルに一人暮らしの仁礼は、如月と柳との共同生活に、学生時代の寮生活を重ねて楽しんでいる節がある。やりたいようにさせよう、と沈黙を守ることにした。

 それに、二十四時間警察に張り付かれるのと、仁礼とその護衛にたまに顔を合わせるのでは、鬱陶しさに雲泥の差がある。

 仁礼の拒絶と如月の沈黙を嘲笑うように、竹井は挑戦的に脚を組んだ。


「警視総監直々と言っただろう、間に合ってると言われて引き揚げるわけにはいかないんだよ。――犯行予告日の五日も前から二十四時間警備ってのは、俺も大袈裟だと思うが、侯爵閣下の差し金らしいぜ。文句があるならそっちへ言ってくれ。俺たちは命令に従うだけだ」

「伯父さん……!」


 小さな波紋が拡がり、跳ね返って、日常が崩れていく。無害に思える予告状一枚で、こうも容易く人々が巻き込まれ、本当に実行されるのかもわからない事件に踊っている。

 この喧騒が犯人の目的なら、実に鮮やかなやり方だ。如月の周囲には、その平穏を破る人物が多すぎる。


(――喧騒……?)


 ふと引っ掛かり、無言になった如月の思考を、ノックの音が破る。入室してきたのは柳だ。


「僕もあまり人が増えるのは歓迎しません、仕事が増えそうなんで」


 予告状の存在を知りながら平素とまったく変わらない唯一の人物は、鋭く眼光を飛ばす竹井にも臆さず、つけつけと自分の意見を述べた。


「それに先生は被虐趣味者(マゾヒスト)なんだから、怪盗に(かどわ)かされて虜になっても嬉しいんじゃないですか」

「……あんた、そんな趣味なのか」

「朝彦、それなら早く言ってくれれば」

「ちょっと待ってくれ……!」


 予告状に惑わされない人間までもが、如月の日常に波紋を立てる。小さな洗面器の中の、凪いで穏やかな生活を望んでいるのに、ここ数日で大海の大嵐に投げ込まれたようだ。

 竹井と仁礼の自分を見る目が、柳の一言で変わったように思われ、如月は呻いた。付け札(レッテル)を貼るにしても、被虐趣味者は酷過ぎる。


「柳君、全ッ然、援護射撃になってないよ……!」

「援護射撃に来たわけじゃありません」

「じゃあ、何の用だい」


 これ以上言葉の暴力を振るわれたら、耐えられそうにない。少々怯えながら促す如月に、飴と鞭の使い分けをよく心得た有能な秘書は、微かに口角を上げながら報告した。


「もうすぐプリンが蒸し上がります。書斎にお持ちしますから、今日が締切の原稿をお忘れなく。仁礼様と刑事さんは応接間(こちら)でどうぞ、お二人で好きなだけ歓談してください」


 柳に助け舟を出したつもりは毛頭なく、自邸の警備という実務的な話において如月はまったくの役立たずだから、適材適所の原則に従い担当を分けたに過ぎない。

 後でこっそり感謝を述べに来た如月に対し、柳はそう説明し、『実務的に無能』という二枚目の付け札を主人に貼ったのだった。

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