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怪盗を待ちながら  作者: 音羽夏生
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櫻屋敷

 途中、仁礼行きつけの洋食屋で昼食を済ませ、二人は櫻侯爵邸へ赴いた。近所でも有名な桜の名所となっている邸宅は、敷地をぐるりと桜並木に囲まれており、『櫻屋敷』と呼ばれ近隣の人々に親しまれている。

 御一新以降に建てられた華族や実業家の邸宅は、迎賓用の洋館と家族が居住する和館を併設する和洋折衷様式が多いが、西洋通の初代侯爵が建てた櫻家の本邸には、庭園にある茶室を除き日本家屋はない。関東大地震にも耐えた堅牢な洋館で育った如月の母は、洋式の生活に慣れており、若草館に仏間以外の和室がないのも、侯爵の意向を容れてのことだった。そのせいで、如月は昔から正座が得意ではない。

 家を出る前に連絡を入れておいたため、二代侯爵(さくら)篤國(あつくに)は、如月のために時間を作ってくれていた。家族室と呼ばれる私的な応接間でにこやかに甥を迎えたものの、午前中の柳の報告のせいで、櫻は機嫌が悪かった。


「まったく不愉快な話だ。二度も間違って予告状を送り付けるなど、犯人はよほど間抜けか人を見る目がないのだな」

「人を見る目、ですか」

「これは愉快犯だろう。この手の輩は、騒ぎが大きくなってこそ喜ぶ。それがよりにもよって、朝彦に予告状を送るとは。朝彦宛ての予告状など、水を掛けた線香花火か塩を掛けた蛞蝓(なめくじ)みたいなものだ」


 一体どんな比喩なのだ、と眉を寄せた如月の横で、仁礼が深く頷く。


「言い得て妙ですね」

「どうせなら、仁礼君のような男に送ればよかったのだ。挑戦を受けて立ち、探偵よろしく周到に罠を巡らせて賊を捕らえる気概もあろうに」

「お言葉ですが、私も事業をしている身ですから、そこまで暇ではないのですよ侯爵」

「暇とか手間とかの話ではない。覇気と目的を遂行する技量について話しているのだ」


 やる気も実務能力もないと言われたも同然の如月は、自身が塩を掛けられた蛞蝓呼ばわりされたわけではないことに、とりあえず安堵した。


「伯父さん。伺ったのは、警察に届けた予告状のことではないのです。もう一枚の、誤配ではない、僕宛ての予告状についてで」

「もう一枚?」


 如月が予告状発見の経緯を説明する間に、みるみる櫻の顔は険しくなっていく。手短に話を終える頃には、元々斜めだった機嫌はさらに(かし)いで、殆ど垂直になっていた。


「おのれ下賤の怪盗め、よくも可愛い朝彦に予告状など!」


 腰に大小を差していれば、無礼打ちも厭わない剣幕だ。

 世が世なら、櫻侯爵は大藩の藩主である。明治の終わりに生まれた如月に徳川の世は遠く、そうした櫻の言動を、これが殿様仕草なのだな、と興味深く眺めるのみだ。


「そういうわけで、あの家を建てた時に何か見つけたとか、そういった話をご存知ではありませんか」


 伯父の憤激を意に介することもなく話を進める甥に、櫻は少々鼻白んだ様子を見せた。ここ一番の見得を切ったのに、観客に無視された役者のような風情だ。

 それに如月は勿論気づかず、気づいた仁礼は唇の端で笑いを噛み殺した。


「――あれは父上と私が、吟味に吟味を重ねて決めた場所だ。間違いなどあろうはずがない。だが無論、普請中に何かあったとしても、すべて報告が上がってくるわけでもない。……そういえば、普請を頼んだのは《《あの男》》のところだったな」


 櫻はソファの上で座り直し、しばし沈思した。この事件の底にあるものを探るように、顎の下を擦る。


「《《前》》の時に、警察が彼もその周辺も洗いざらい調べただろう。それについては私から聞いておく。――だから朝彦。この件が片付くまで、お前はここに泊まりなさい」


 政府の重鎮らしく重々しい前半とは打って変わり、嬉しさを隠しきれない後半の調子に、出たな過保護、と内心で如月は身構えた。何かと甥を構いたがり手元に置きたがる伯父を、親愛をもって日々敬遠する如月には、予測された展開だ。


「仕事がありますし、予告状が来ているのに家を空けるのも不用心です。帰りますよ」

「朝彦!」

「ご心配には及びません、しばらく私が泊まり込みましょう」


 仁礼の助け舟は、あまりありがたいものではなかった。相手と場所が変わるだけで、結局は干渉されることに変わりはない。

 個人主義の信奉者である如月に、この伯父と旧友は少々――勿論控えめな表現だ――重い。しかしどちらがより重いかといえば、それは言うまでもなかった。仁礼が屈強な闘牛用の雄牛だとすれば、伯父は最強のティラノサウルスに匹敵する。


「大陸暮らしで鍛えられて私もなかなかやりますし、護衛もおりますから。向こうでも世話になった男で、腕の立つのは折り紙付きです。朝彦君の身を守るくらいなら十分ですよ。それに朝彦君が言う通り、家を空けるのはよくないでしょう。戦わずして賊に降参するようなものです」


 むむ、と今も家宝の名刀の手入れを怠らない武士の末裔は、唇を引き結んだ。卑劣な敵を前にして戦を避けるなど、四品(しほん)に叙された大大名家の家訓にはない。


「あのね、聞いてください伯父さん」


 仁礼の揺さぶりに生じた隙に、さりげなく如月は畳み掛けた。


「僕は自分のことは心配していません、うちに金目の物はないんですから。こんなことを口にしたくないのですが、僕は、この家が狙われる可能性を考えずにはいられないのです」


 家ばかりが立派で、薄給に日々汲々とする如月家に届けられた『櫻』を狙う予告状。

 それが標的とするものが庭の桜の木ではないなら、如月に心当たりは一つしかない。仁礼の言う通り、何かが埋められている可能性はあるが、身近な大切な人たちの生活が脅かされる危険が少しでもあるなら、確実に取り払わなければならなかった。そしてそのための力は、伯父自身が備えている。大勢を動かすことのできる、権力と財力という名の力だ。

 如月にできるのは真摯な注意喚起だけだが、櫻は正しく汲み取ったようだった。


「もしそうなら、犯罪者のくせに随分度胸のない卑劣漢だ。当家を狙うならここへ予告状を送るべきものを、よりにもよって可愛い朝彦を煩わせるとは。そいつの肝っ玉は、塩を掛けられた惨めな蛞蝓だな!」

「……君の伯父上は、蛞蝓に特別な恨みでもあるのかね」

「蒐集している擬宝珠(ぎぼうし)を、毎年食い荒らされているんだ」


 盆栽愛好家として知られる櫻は、鉢物以外の植物の蒐集にも熱心だった。波打つ大きな葉が優美な擬宝珠は、斑入りや青味がかった葉色が美しいものもあり、それを食い荒らす蛞蝓は櫻にとって不倶戴天の敵なのだ。

 小声でそう聞かされ浮かんだ感情を、仁礼は紳士的な無反応をもって綺麗に隠した。


「犯行は一週間後と書いてあったのなら、その間何事もなく過ごせれば問題ない。当家のことは心配無用だ」


 そう宣言する櫻は、時代掛かった殿様ではなく、現代に生きる辣腕の実務家の顔をしている。それでも如月に掛ける声はやさしく、眼差しはあたたかく、懐かしく愛しい者を見る時のそれだった。


「朝彦、お前は帰って桜を守りなさい。鞠子が愛した桜を」

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