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怪盗を待ちながら  作者: 音羽夏生
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若草館 Ⅰ

 竹井警部の悪態に送られながら、如月は自宅に戻った。仁礼は鳴坂署の前に堂々愛車を乗り付けており、その助手席に座っての帰宅だ。国内にはまだ数台しかない屋根なしのアストン・マーティンは、車自体は珍しくない東京市内でも道ゆく人々の視線を集め、乗り心地はあまりよくない。

 成功した事業家である仁礼とは異なり、如月の懐は常に寒々しい。節約のため、往きはタクシーも呼ばず徒歩で鳴坂署まで赴いたが、帰宅するにはまたいくつか坂を越えなければならない。寒さも緩み、ここ数日で随分春らしくなってきたから、急な坂道を往復する外出も苦ではなかった。しかし、坂を越えて出向く先が警察というのは、どんな気候であっても気持ちのいいものではない。

 正直なところ、仁礼が迎えに来て助かっていたのだが、如月は少々腹を立てていた。


「柳君だな」


 有能だが気の利きすぎる秘書の顔を思い浮かべ、如月はしんなりと柳眉を寄せた。


「あのタイミングで君があの場に来るなんて、……うちの人間を買収したんだな」

「人聞きの悪い。柳君が櫻家に朝彦の外出を報告していた時、たまたまその場にいただけだよ。君が出掛けた後に、昼食に誘いに来たんだ」


 仁礼の言葉を、如月は半分だけ信じた。つまり伯父に報告する前に、柳は仁礼に連絡を入れていたということだ。

 (やなぎ)慎二(しんじ)は伯父の差し金で、表向きは秘書、実際は生活能力のない如月の生命線として雇われており、給金も伯父から出ている。彼がいないと生活が立ち行かないため、追い出すこともできずにいるが、そのせいで如月の日常は伯父に筒抜けだ。

 それだけでも十分鬱陶しいのに、最近帰国したこの旧友も、何かと如月を構ってくる。上海帰りの男爵で、懐具合も豊かな適齢期の美男子とあって、昨今の社交界では一、二を争う人気という話だ。その喧騒に嫌気が差し、旧友と(つる)んでいる方が気が楽だと、時間を持て余すと如月を訪ねてくるのだが、突然訪問しても空振りしないように、普段からいくらか柳に握らせているようなのだ。


「たまたま侯爵がご在宅でね。電話口で噴火しそうな勢いだったから、私が代わりに君を迎えに行くと申し出たんだ。侯爵自ら出向いたら、世間の耳目を集めるだけで朝彦のためにもならないと」

「伯父を止めてくれたことだけは感謝するよ」

「おや、私の運転は気に入らないとでも?」

「ジロジロ見られない、屋根のある車の方が僕は好きだ」

「春らしくなってきたんだ、素直に外の空気を楽しんだらどうかね」


 急な坂を登りきり、さらに緩やかな坂を下がって上がり、その先に広がる屋敷街をしばらく進んだところに、如月邸はある。こじんまりとした木造銅板葺の洋館で、若緑に塗られた壁の色から、近所では『若草館』と呼ばれている。如月が生まれ育ち、今は秘書の柳と住む家だ。

 青銅の(フェンス)の前に車を停め、二人は車を降りた。玄関で出迎えた柳に、如月はチラリと目線で抗議の意を送ったが、鉄面皮のこの男は動じることもない。主人の情報を売り渡すことに、良心の呵責を一片も感じていないのは明らかだ。すぐにお茶をお持ちします、と身を翻し、奥に消えていった。

 応接間に仁礼を残し、自室で外套と帽子を片づけて戻ると、ちょうど柳が盆を持って入室するところだ。一度きちんと話をしなければと思っていた如月は、その好機が到来したことを(さと)った。


「君も座って、柳君。――あのね、狙われたお宅は気の毒だけど、今回もうちには文字通りの他人事だよ。わざわざ伯父さんに伝えるほどのことじゃないだろう。しかも仁礼君にまで」

「それだけじゃないから、柳君も動いたんだろう」


 鷹揚にソファで寛ぐ仁礼は、この家の主のような風情だ。当て擦る口調に、如月は無表情で一人掛け椅子に座る柳に非難の眼差しを送った。


「……仁礼君に言ったのかい」

「言ってませんよ。しばらくは昼間も戸締りを厳重にするので、お越しの際は事前にご連絡くださいとお伝えしただけで」

「朝彦、どういうことだ」


 一高以来の付き合いである仁礼は、普段は穏やかな物腰の洗練された好男子だが、こうと決めたら一歩も退かない剛さがある。そういう時は目が笑っておらず、今がその時だった。そしてこの状態の仁礼に、如月は勝てた(ためし)がない。

 抵抗しても長引くだけだ。如月は渋々白状した。


「予告状は二通届いたんだ。一通は警察に届けたもの、もう一通は僕宛てのもの」

「何だって……?」


『貴家の櫻を頂戴します』


 マントルピースの上に放っておいたカードを、仁礼に手渡す。白い紙面には、淡白かつ傍迷惑な一文のみが黒で印字されていた。


「何故言わなかった」

「桜の木を盗むなんて無理だからさ」


 素気なく答える如月に、仁礼の瞳に怒りが煌めく。心配してくれるのはありがたいが、どうしてこうも過剰な心配性ばかりが身近にいるのかと、如月はため息を吐いた。


「夜中に掘り起こしたり伐り倒したりしたら、僕はともかく柳君が絶対に物音に気づくよ」

「普通気づくでしょう、それは」

「君も気づきたまえよ。君の生誕を祝って植えられた桜なんだろう」


 この家は、如月の両親の結婚祝いに先代侯爵の祖父が贈ったものだ。庭に桜を植えるのは縁起が悪いとも言われるが、櫻家では屋敷の庭に桜を植えるのが慣わしとなっている。

 新婚夫婦の新居に植えられた若木は如月と同い年で、今は立派な成木となり毎年春を彩っている。今年も既に開花しており、一週間もしたら満開の見頃を迎えるだろう。


「そもそも桜というのは、そのまま桜の木を指しているのか? 朝彦の言う通り、木を丸ごと盗むのは不可能だし意味がない。ただし、その下に何か埋められているなら話は別だ」

「何かって?」

「そりゃ財宝か死体だろう」

「……仁礼君、面白がってるね?」


 刺激的な上海から、震災の復興途上で潤いも少ない東京に戻り、暇を持て余しているに違いない。如月は呆れて足を組んだ。

 そんな曰く付きの土地に、娘を溺愛していた祖父が家を建てるとは思えない。財宝が埋まっていたなら、植樹する際に掘り出されているだろうし、そうした逸話を両親から聞かされていたはずだ。


(その逆で、後から埋めたとか?)


 その可能性も低そうだった。

 庭には櫻家が手配した庭師が定期的に訪れ、手入れをしてくれている。木に異変があればすぐに気づくだろうし、そもそも勝手に埋めていったのなら、勝手に掘り出せばいいのだ。

 予告状を送りわざわざ警戒を煽ることの利がまるでわからず、如月は改めてテーブルの上のカードを眺めた。


『貴家の櫻を頂戴します』


 桜を盗るとは――桜とは、何を意味するのだろうか。

 自分だけの些末事と線を引いていたこの件が、思い掛けず面倒な事件となる可能性に、如月は気づいた。家にある桜といえば、庭にある一本だけだが、同様に深い縁のある『櫻』は別にある。如月の桜とは比べ物にならない、広く根を張り嵐に揺らぐこともない大木が。


(狙いは伯父さん……櫻家?)


「すまない、仁礼君。もう一度車を出してくれるかい」


 腰を浮かせながら頼む如月に、仁礼は快く頷いた。

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