2ー8 お互いさま
「樹神くんは昔と比べてずいぶん冷静になったねぇ」
「私も多少は大人になりましたよ、おかげさまでね。今回みたいな件じゃ、私の能力ではこのくらいしか役に立てんもんで」
カイコさんと樹神先生が交わす会話を、僕は椅子に身を預けたままで聞いていた。
ひと仕事を終えた今、ギリギリで保っていた緊張の糸が切れ、心身ともに力が入らなくなっている。やはりこの『狭間の世界』では、消耗の度合いが現世とは全く違うようだ。
百花さんが、そっと僕の肩に手を置いた。
「服部くん、大丈夫? 早よ外出た方がいいかもしれんね」
「あっ……す、すいませ……」
僕は視線を彷徨わせながら、どうにか口だけを動かした。急に動悸がおかしい。触れられているところがくすぐったい。
カイコさんにも顔を覗き込まれる。
「服部くん、キツいこと頼んで申し訳なかったわ。百花ちゃんおって助かったけど、しんどいだら。ごめんね、ありがとね」
「いえ……」
謝られると惨めになる。カイコさんのせいじゃない。僕が未熟なせいだ。
「何にせよ、ひとまずお暇しよう。服部少年、動けるか?」
「……はい」
刻一刻と重さを増す我が身に喝を入れ、無理やり立ち上がろうとした。だけど敢えなくバランスを崩し、そのまま床にへたり込む。
「まったく、世話の焼ける」
先生の呆れ声。僕は二の腕を掴まれ、ぐいと強く引っ張り上げられる。しかし足腰が立たず、図らずも先生にしがみつく格好となった。
「ではカイコさん、我々はこれで。報酬などの話はまた後日お願いします」
「ふァッ⁈ そ、そうだね! じゃあまた」
僕たちを見送るカイコさんは、大きな瞳を輝かせ、唇を内側で噛んで何かを堪えるような表情をしていた。
『懐古堂』の外へ出て現世に戻ると、幾分か楽になった。いつの間にか雨は止み、湿ったアスファルトの匂いだけが鼻先を掠めていく。
土曜の午後の大須商店街はそこそこ賑わっていた。平日より生者が多い分、亡者の姿は目立たない。
アーケードの大通りを、三人並んで歩く。僕を挟んで両隣に先生と百花さん。百花さんはともかくとして、先生の歩調はいつもよりかなり遅い。気を遣ってくれているのだ。
「ねぇ、どっかお茶してこ。あたし喉渇いた」
百花さんの提案で小さなカフェに入り、ひと息つく。
「それにしてもカイコさん、どうしたんかしらん。前だったら、今日みたいに服部くんの魂から別の魂を分離するくらい簡単にできたと思うんだけど」
「何か調子が出んらしいわ。本人は経年劣化だって言っとったけど」
「えぇ? 何それ、大丈夫なの?」
頼んだ飲み物が運ばれてくる。先生はアイスコーヒーを一口飲む。
「考えてみや、カイコさんっていつからあそこにおるんだった? 俺は中学の時におつかいで行ったのが最初だったと思うけど」
「うん、あたしもそんな感じ。よくカイコさんから薄い本頼まれたりもしとったよ」
「まじか……少なくとも二十年前には既に腐っとったんだな」
「十年くらい前までは、現世のお店も普通に開いとったよね」
「あぁ、先に『狭間の世界』に移動してから店に入っとったもんな」
「何にしてもちょっと心配だねぇ。また何かあたしに手伝えることがあったら呼んでよ」
「助かるわ、百花さん」
会話が途切れて、沈黙が訪れる。
僕はとうとう居た堪れなくなった。
「あの……すいませんでした。今回も迷惑かけて……」
「ん?」
「え?」
二人が同時に首を傾げる。
「いや、迷惑とは全然思っとらんよ。君がおらんけや、解決できん案件だったわけだしな」
「そうそう。服部くん、まだ憑依二回目なんでしょ。今回だって途中まではいい感じだったことない? むしろ上出来だわ」
「そう、ですかね……でも……」
僕の目の前で、メロンソーダに浮かんだ氷の塊が、所在無げにぐらりと揺れる。
先生が軽く眉根を寄せた。
「俺んらに迷惑かけるとか、そんなことは考えんでいい。このくらいはお互いさまだよ。むしろ、あの場でマイナス思考に沈んだことの方が問題だな。それこそ命取りになり得る」
「……はい」
全くその通りだ。力不足は仕方ないとして、それを嘆く心こそが『念』にも繋がる。そんなこと、嫌というほど知っているのに。
僕の隣に座った百花さんが、アイスティーをストローで掻き混ぜながらのんびりと言った。
「まぁまぁ。誰にだって苦手なことやできんことはあるし、失敗することもあるわ。あたしや皓志郎だってそうだよ。多少つまづいて転んでも大丈夫。ちゃんと起き上がれや、何も問題ないよ」
僕には何かが足らない。それは事実だ。
じゃあ、いったい何が。今度はマイナス思考に沈まずに、正面きって考える。
困難にぶつかっても、誠実に己と向き合うべし。先日引いた『凶』のおみくじは、利き手とは逆の手で結び付けた。
「あたしらのこと、いつでも頼ってくれていいでね。あたしも服部くんを頼りたいし」
「あっ、はい……頑張ります」
「やだ、いっつも頑張っとるでしょ」
百花さんのふんわりした微笑みと。
「相変わらずだな、君は。でも何だかんだ言って、目的を見失わんかっただろ。ちゃんと成長しとると思うよ」
先生の穏やかな労いの声。
今日何度目かも分からない胸の苦しさを感じる。
でもそれは、今日初めての僕自身の温かな苦しさだった。
後日。
依頼人である長江さんが茶壺を取りにくると聞いたので、僕は一人で『懐古堂』を訪れた。
『たつぼ』のことを、ちゃんと見届けたかったのだ。
男性の姿になったカイコさんから『たつぼ』についての話を聞いた長江さんは、わずかに目を潤ませて彼をそっと撫でた。
「この子、辛い思いをしたんですね。元々わたしにとっては祖父との大事な思い出の品だったんですけど、そういうことなら尚さら大切に使わないと」
『たつぼ』の声はもう聞こえない。それでも彼が喜んでいるのを、僕は何となく感じ取る。
長江さんと『たつぼ』を見送ったら、なんだか胸がいっぱいになってしまった。
「あの人に使ってもらえるんなら、『たつぼ』は幸せになれそうですね」
「そうだねぇ。……『大事な思い出』か。いいな、そういうの」
カイコさんは元の姿に戻って、静かに微笑む。白い横顔はなぜか、どこか寂しげに見えた。
不意に考える。
ずっと前からここに一人でいるらしいこの霊は、どんな想いで成仏せずに留まっているのだろう、と。
僕の視線に気付いたカイコさんが、口の端を小さく上げて言ったのは、思いも寄らないことだった。
「私ね、生前の記憶がないんだわ」
「……え?」
「服部くんにはバレとるかと思った。読めるような記憶、何もなかっただら?」
言われてみれば腑に落ちる。カイコさんの魂は、ひどく軽かった。
魂は、現し身に宿る。魂が現し身と共にあったころの記憶が、丸ごとない。
失くした記憶は空白だ。思い出せないことがある、ということしか思い出せない。
実際、僕自身にも覚えがあった。
少し躊躇ってから、口を開く。
「……僕も前に、記憶の一部が欠けとったことがあったんです。自分の存在が、えらく覚束ない感じがするんですよね」
欠けていたのは、茜ちゃんに関する記憶だった。あんなに大事なことを忘れていたなんて、今考えてもゾッとする。
もしかしたら。
カイコさんも、力を上手く使えなくなったことで、本当はもどかしい思いをしているのかもしれない。
生前の記憶がないことで、自分の存在が心許ないのかもしれない。
自意識が不安定な状態だと、力だって揺らぎやすいのではないだろうか。カイコさんの場合、そこにどれほどの関連性があるのか分からないけれど。
しばらく二人で沈黙を共有していた。
どうしたものかと視線をやれば。
白い幽霊は、口元を押さえて小刻みに震えていた。
「ンンッ……何そのしんどそうな過去……うまみがすごい……」
……いや、この霊は何か大丈夫な気がする。
カイコさんは相好を崩した。
「ともあれ、ありがとうね。今の私じゃどうにもできんかったもんで、みんなのおかげだよ」
「いえ……あの、お互いさまですから」
覚えたての言葉みたいに、少し気恥ずかしい。でもきっと、こういう時にこそ使う言葉だ。
誰にでも得意と不得意があり、みんなそれぞれ違う。何がどの程度と把握できれば、対処もできる。
先生も百花さんも、そしてカイコさんも、互いにそうしている。
元々ない手足を足らぬと欲するのではなく、今の状態でやれることを考えた方がいい。
「カイコさん、今日は何かお手伝いすることってあります?」
「えっ? あぁ、ほんならメロカリで注文入っとる商品の発送作業頼める? またコンビニに届いとるもんもあるし」
「分かりました」
「悪いね、助かるよ」
カイコさんはにぃっと笑った。いつも通りの朗らかな表情で。
だから僕も笑みを返した。
「いえ、お安い御用です」
まるで我が師匠の言いぶりだ。でも言葉通りに簡単なわけではないのだと、口に出して初めて気付く。
ペンダントライトから降り注ぐ夕暮れ色の光を、最初に訪れた時よりずっと優しく感じる。
神棚から流れてくる清浄な気が、僕の肌をそっと撫でていった。
—#2 強欲の壺・了—