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1ー1 懐古堂のカイコさん

 名古屋市営地下鉄上前津(かみまえづ)駅八番口から地上へ出ると、すぐ目の前には大須商店街のアーケードがある。

 空の下に晒されるほんのわずかな距離を、降りしきる雨を避けるように、僕は急いで駆け抜けた。


 いったん屋根の下に入ってしまえば一安心。たすき掛けした帆布バッグは、表にいくらか水滴がついたものの、中身は無事のようだ。

 大学の生協で買ったばかりの高価で分厚い教科書はもちろんのこと、大事な預かり物を濡らすわけにはいかない。


 平日の夕方。商店の立ち並ぶ往来には、ぽつぽつと通行人の姿がある。

 大きな招き猫のオブジェがど真ん中に据えられた広場を越え、新天地通りを北へと進む。

 店の外にまでラックが出された古着屋に、年季の入ったパン屋、その向かいにはお洒落なジューススタンド。少し先へ行けば老舗の電気店やゲームセンター、真新しい台湾スイーツの店なんかもある。

 いつ見ても、新旧ごった煮の街だと思う。しかもジャンルの違う店同士が平気な顔して自然に隣り合っている。


 それだけじゃない。

 この商店街を歩くといつも、肌の表面がざらつく。何の気なしに目をやれば、天井から下がった看板の陰で怪しげなモヤがゆらゆら揺れていたりもする。

 はっきりとは視認できなくとも、そこかしこに感じる、この世ならざる者の気配。

 どうにも雑多な念が蔓延りやすい場所であるらしい。日本三大観音の一つである大須観音から強く清浄な気が絶えず流れ込んでくるので、よほどの悪霊は寄り付かないだろうけれど。


 ホビーショップの壁に身体半分めり込んだ幽霊を見かけた。その側を、クレープを手にした女子高生たちが談笑しながら行き過ぎる。

 生者の世界に紛れ込む霊的存在。例え()()()としても、僕はいちいち彼らに絡んだりはしない。通りすがりの見知らぬ人に無闇やたらと話しかけたりしないのと同じで。


 さて、目的の店はどこだったか。

 スマホを取り出し、バイト先の雇用主に送ってもらった地図の画像を確認する。彼は僕にとって師匠と言ってもいい人であり、今日は彼のおつかいでここに来ているのである。

 第一アメ横ビルを右手にして進み、ゲームセンターの脇道を左へ折れる道順。もう間近であるらしい。

 ただし、そこから先はアーケードがない。さっきは不精してしまったけれど、さすがに傘が必要だ。

 僕はバッグにあった折り畳みを開き、大通りから路地へと入った。


 途端、大粒の水滴がパタパタと傘の上で跳ねる。土砂降りというほどでもないけれど、雨足はかなり強くなってきている。

 ほんの少しメインストリートを逸れるだけで、めっきり人の姿を見かけなくなった。

 吹き付ける風は冷たく、勢いを増した雨が僕の下ろしたてのスニーカーを濡らす。

 まだ四月初旬。昨日までの陽気が嘘みたいだ。


 もう一度、スマホ画面に視線を落とす。

 いくつかの立体駐車場や雑居ビルの合間を抜けて、地図上に示された印の場所で顔を上げれば。


「ここ……?」


 目の前には、古めかしい店が一軒。一階が店舗、二階が住居という造りで、煤けたようなモルタルの外壁。そこに直接、ところどころ欠けた文字で屋号が貼り付いている。


 『古美術 懐古堂』


 この店で間違いない。

 時代の流れに取り残されたような佇まい。このところ昭和レトロブームだから、好きな人は好きな雰囲気だろうと思うけれど。

 そんなことより、大きな問題があった。

 シャッターが、下りているのだ。しかも表面ががっつり錆びている。

 耳を澄ませても、全く人の気配がない。ただの留守というより、もう何年も営業していないように思える。


『君だったら、行けば分かるから』


 我が師匠はそう言っていた。

 しかし、店が潰れているとは聞いていない。


 ううむ、どうしたものか。

 ひとまず、折り畳みでは心許ないほどの雨を避けるのに、僕は店の軒下へと入った。

 傘から雨粒を振り落とし、文句の一つでも言ってやろうと相手の連絡先をスマホ画面に表示させたところで。

 ふと、シャッター周りに奇妙な気の流れを感じた。

 不審に思って手を伸ばした、その瞬間。

 ばちん、と。

 全身を、電流のようなものが駆け巡った。


「えっ?」


 異変は突然だった。

 目の前のシャッターが音もなく上がる。その奥にあるガラスの引き戸も、するすると開いた。

 僕の意思とは無関係に、抗えない力で店の中へと引き込まれる。そして、背後でぴしゃりと戸が閉まった。


 いったい何が起きたのか。

 思いのほか店内は明るい。天井から吊り下がったアンティークのペンダントライトが、深い橙の光を放っている。

 夕暮れにも似た色に照らし出されるのは、数々の商品たち。皿や食器などの陶磁器の他、美しい細工の小箱やタイプライター、ふた昔以上は前のものと思われる電話機、人形や置き物の類もある。どれもきちんと手入れされているようだ。


 壁には神棚。そこから出る澄んだ気が、この店の空間を護っている。

 天井に貼られた『雲』の紙はかなり色褪せているけれど、ちゃんと神さまがいるのだ。


 外観とはまるで印象が違う。完全な空き店舗に見えたのに。

 中は何となく暖かい……というより、全く寒くない。

 自分の手にある折り畳み傘から、自分の足にある濡れたスニーカーへと視線を移して、ぎょっとする。

 影がない。

 慌てて店内を見回す。

 僕が入ってきたガラス戸。シャッターは上がっているはずなのに、なぜか外の景色を認識できない。

 それに、あれだけ降っていた雨。あの雨音が、今は一切聞こえない。

 一つ息をつく。吸い込んだ空気も全くの無味無臭だ。


 当たり前に享受していた感覚の何もかもが、ひどくぼんやりしている。

 言うなれば、五感が丸ごと組み変わったかのような。唐突に夢の中へといざなわれてしまったかのような。

 この感じ、身に覚えがある。むしろ、よく知っている。


 僕は改めて気を張った。どうして自分が()()()()()()()()()()()()()のか。次に何が起きても良いように、油断なく身構える。


 かたん、と物音が鳴る。カウンター奥の戸の向こうから、呼びかけられた。


「いらっしゃいませ」


 涼やかな女性の声。怪しい骨董屋には不似合いなほどの。

 兎にも角にも、お店の人であるらしい。


 僕は慌てて名乗る。


「あっ、あの、僕、樹神こだま探偵事務所の助手の、服部はっとりと申します。今日は、うちの先生の時計の修理をお願いしたくて……」


 奥の部屋の引き戸がガラガラ開いて、声の主が顔を出す。

 その姿を見た僕は、思わず言葉を呑み込んだ。


「あぁ、樹神くんから連絡もらっとるよ」

 

 さっぱりと短い白色の髪。白のブラウスに白のスラックス、白いストール。そこに留まった白い蝶のブローチ。

 くっきりした大きな瞳だけが、思い出したように黒い。耳元では葉脈を象ったようなデザインの耳飾りが揺れている。

 すらりとした、中性的な雰囲気の女の人だ。綺麗だけれど、年齢はよく分からない。若いようにも、かなり年上のようにも思える。


 だけど懸念すべきはそんなことじゃない。


()()()()()の『懐古堂』へようこそ。私は店主の『カイコ』と申します。曰く付きの骨董品・美術品の買い取り・販売から、特殊な道具の作成・修理・メンテナンスまで。一見いちげんさんお断り。お客さまのご来店に合わせて店ごと現世うつしよに具現化いたします。……のはずなんだけど」


 にぃっと薄紅色の唇の両端を吊り上げる、カイコと名乗った彼女の纏う気配は——


「……君、自分で『扉』開けてきたね」


 まるきり、幽霊のそれだった。

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