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*37* 帰ろっか

 今朝あたしにパーカーを貸してくれたのは、柚乃だ。

 だから、藤色フードの黒パーカーを着ている目前の彼は、梨乃のはず……


 そうだよ、梨乃のはずだよ。

 だって今日1日、なんの違和感もなく一緒に講義を受けた。ノートだって、貸してくれた。


「俺は、柚乃でーす」


「そんな……っ!」


「残念でしたね、月森センパイ? 2択で間違えるとか、やっぱおバカさんだったり? それでユキちゃんを守るとか、よくほざけますよねー」


「このガキ……ッ!」


「あーヤダヤダ。負け犬はよく吠えるから、ウザくてしょうがないったら」


 先輩への敬意なんて、チリすらもない。

 楓の拘束から抜け出した柚乃は、ひょいっと回り込んでくる。

 身体を強張らせたあたしへ、無邪気に笑いかけるために。


「ね、ユキちゃん。こんな役立たずわんこなんかにかまってないで、俺のとこにおいで? 楽しいことしよ?」


「イヤ……来ないでよ……!」


「あっれー? もしかして泣きそう?」


「泣いてないっ!」


「あぁ……いいねぇその顔! すっげー俺好み! かわいいなぁ……もっとこっち向いてよ」


「退け」


 平坦な低音が、あたしと満面の笑みとを遮る。

 突き飛ばされながらも、柚乃は倒れることなく、机に手をついただけ。


「……ってぇな」


 心にもないような文句をつぶやいて、楓を見上げる柚乃。

 絶えず笑みを浮かべていた彼の失笑だけに、楓の背にかばわれながらも、二の腕をさすらずにはいられなかった。


「マジねーわ。俺、お楽しみをジャマされんの大っキライなんだよね」


「知るか。ユキさんに手ぇ出しやがって……変態兄弟が」


「あースミマセン、濡れ衣です。コレ、俺の独断なんで」


「……どういうことだ」


「ユキちゃん泣かせたりしたら、雷が落ちますって。今日のは俺の趣味、梨乃は関係ありません。なんで、悪く言わないでやってくれますかね? ユキちゃんも」


 話を振られるたび、もう身構えずにいられない。

 あたしの睨みなんか歯牙にもかけず、柚乃は言葉を紡ぐ。

 黒曜石の瞳を、うっとりとろけさせながら。


「キスって、あんなに気持ちいいものなんだな」


「なっ!」


「俺の〝初めて〟は、ユキちゃんのモノだねぇ? 梨乃にはナイショだぞ?」


 今朝見せたように、柚乃はしぃ、と人差し指を唇に添える。

 悪びれた様子をまるで見せない男に――ふつふつと、沸き上がってしょうがない感情がある。


「サイッテー」


 見ないで、ふれないでよ。

 皮を切れば、嫌悪感しか顔を出さない。

 怒りに任せ、着ていたパーカーを投げつける。


「おっと。もう要らないの? そんな薄着だと風邪引くよー?」


「あんたの服に包まれてるくらいなら、風邪こじらせて死んだほうがマシ」


「あらら? コレってツンデレってヤツかな?」


「黙れ。耳が腐る」


 立て続けに睨まれ、柚乃はようやく口を閉じた。

 机に片膝を立てて座り込み、その漆黒の瞳で、あたしたちの様子を面白げに眺める。


「いいよ、今日はこの辺にしといてあげる。また遊ぼーね、ユキちゃん?」


 もうあんたなんか知らない。

 ヒラヒラ右手を振る柚乃に答えることなく、あたしは楓と図書館を後にするのだった。



  *  *  *



〝ひとりで帰れるから〟という強がりを見抜かれて、数分ほど。

 正門にほど近いベンチで、楓は終始あたしを気にかけてくれていた。


「落ち着いた?」


「……ありがと」


 否定する気力も、肯定する自信もなかった。

 薄く笑い返して、羽織らせてもらった上着を握り締める。

 楓が腰に巻いていた、オレンジラインの黒ジャージだ。

〝汗くさくてごめんね〟なんて取るに足らないこと。

 むしろ、楓のにおいに……どれだけあたしが安心させられたか。


「悪い……俺がもっと気を配っていれば」


「楓は悪くないよ。あたしが……」


 ……あたしがどうしていたら、避けられたんだろう?

 柚乃の策略に、イチ早く気づいていれば?

 あんたの好意には応えられないって、断っておけば?


 無意味だ。

 あたしを虐げることに快感を覚える男だ。

 冷たくあしらったところで、あいつの手のひらで転がされているだけ。


(……弱いな)


 あたしは、こんなに無力だったろうか。

 愛されることに安心して、警戒心、猜疑心を忘れていたようだ。

 これじゃあ、雪や楓と会う前のほうがよっぽど……



「あ、幸ちゃんとかえくんだ! お疲れさま~!」



 ――思考がパチンと弾け飛ぶ。


 夕暮れの向こうから、小柄なシルエットがあたしたちに手を振る。

 クリスマスカラーの傘を左手に、仕事用のカバンを右手に提げた、雪が。


「雪兄さん……仕事は?」


「ハリキリすぎちゃって、時間になったらすぐに上がれたの! だからね、幸ちゃんのお迎えに来たんだ?」


 ……なんて間の悪い。


「ふふっ、一緒にお夕飯の買い出しして帰ろうねぇ~」


「……え、あ、うん」


 生返事をしてしまい、しまった、と口をつぐむ。


「およよ?」


 ことあたしに関しては、エスパー並みに敏感な彼氏様。

 わずかな動揺を見逃さず、こてん、と首をひねる。

 じぃ―っとまんまるチョコレートに見つめられて、たまらず視線を逸らす。

 それになにを思ったか、雪はにっこり。


「かえくん、講義が残ってるんでしょ? 頑張っておいで」


「雪兄さん……!」


「幸ちゃんなら大丈夫! ぼくがギューッてしながら連れて帰りますから!」


 沈んだ空気、楓のジャージを羽織らされたあたし。

 これで何もバレていないなんて、あたしもうぬぼれちゃいない。


「……頼みます、雪兄さん」


「頼まれますっ!」


 ピシィッと敬礼を決め込んだ雪に、楓は肩を撫で下ろして。


「大丈夫だ、きっと」


 広い手のひらが頭をひと撫で。


 あたしの目線で気丈な笑みを残し、楓はくるりと身体の向きを変える。

 学生が行き交う茜のキャンパスに焦がしキャラメルの後ろ姿が溶けると、あたしに向き直る雪。


「よーし、それじゃあ幸ちゃん、お家に帰ろっか!」


 さり気なくひと過程を省いてみせた雪の、ふにゃあっとゆるんだ笑顔に……


「うん……っ」


 どうしようもなく、泣きそうになった。

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