一の件(2)
「ありがとね、幻ちゃん」
「己は何もしてない。まだお前の件が終わったわけでもねぇ──兵衛に忠告されるまで気づきもしなかった。済まねぇな、凛」
「謝んなくていいよ。あのヤローと話してる時の幻ちゃん……格好よかったもん」
はるかなる異郷のはいからな様式をまねて長い『コの字形』に作られた飯台の中から凛が傾ける徳利を、幻三郎はさきほどから、申し訳なく思う心持を隠そうともせずに杯に受け続けている。
すると突然、凛が大胆きわまる行動をとった。
「お、おい!」
『しゃもじ』の看板娘としてよく勤め、どんなに忙しくても文句の一つも言わずに気風の良い笑顔を振りまく娘が、いきなり幻三郎の杯をひったくった。
彼が止める間もなく杯を呷ると、「平気さ、このくらい!」とやたらと力強く言って、唇を小袖の袖で拭って見せたりしてくれたんである。
「おいおい……」
幻三郎の長兄は基本的に静かで勤勉な男だ。
殿様の信頼も篤く、お傍仕えを務めて長い。
その兄が訥々と想いを語る時機と言えば──不肖の弟が知る限りでは、奥方のこしらえた小料理を肴に質の高い酒を口にする時くらいである。
自分はひとりで手酌を楽しむのが好きだからよく分からないけれど、とにかく酒と言う飲み物には人を勢いづける効果があるらしい、と幻三郎は理解していた。
平気だと宣言したくせに、みるみるうちに顔を真っ赤にしてしまった凛を見て、一瞬でそんな事を思い出した。
「んぅ……頭がくらくらする。けっこう堪えるンだねぇ」
「言わんこっちゃない。今日はもう店じまいだな、『しゃもじ』の親父殿には己から……」
「んもぉ~っ! なんでそんな落ち着いてンのさ幻ちゃん! こんな可愛い看板娘が、あんたにだけ可愛く振る舞ってるってのにっ! ぜんぜんいつも通りじゃないか、左右輔めぇっ……!」
「ははぁ、あいつの入れ知恵かよ。ったくあいつは己の気も知らんでチョッカイばっかりかけおってからに……」
これまで何度も足を運んでいる、と言うか外で飲むときは『しゃもじ』しか使っていない時点で、左右輔ほどの人物なら、幻三郎が腐れ縁の看板娘をどう思っているかくらいは軽くお見通しなはずである。
それでもなおチョッカイを出し、世話まで焼いて来るからには、
「よっぽど己に歯の浮くような科白を言わせたいらしい」
「何を言って……わぁあっ!?」
つるりと禿げ上がった頭を三度ほど引っ掻いてから、幻三郎は素早く飯台の仕切りを開き、凛の隣に立った。
問答無用で娘を横抱きに抱えてしまうと、また素早く座っていた席に戻って、凛を隣に座らせる。
「いいか、凛。己も男だ……言うべきことを言う時が来た。でも1回しか言わねぇからよーく聞け。そんで酒が抜けても忘れんな。いいか、絶対だぞ?」
「う、うん……」
「まずもって、己はどうしようもねぇろくでなしだ。博打は嫌いだし女遊びもしないが、他の連中みてぇに働いてもねぇし兄貴らみてぇに偉くもなれねぇ……。正直お前にゃもっとイイ相手が居ると思ってる、それでもだ。己はお前が好きなんだよ、昔っからな」
いっそ禿げ上がる前にさっさと白状しときゃよかったぜ、と言い添えて、照れ臭くなって、凛の顔を見る。
酒の勢いを借りてでも聞きたかった言葉を幻三郎から聞いて、明るく強気なじゃじゃ馬っ娘が、見るがいい、大粒の涙を上気した頬に落とし続けている。
「いいのか、己なんかで」
「あんたがいい。あたしは……あたしも好きだよ、幻ちゃん──時任幻三郎」
嬉しくてたまらない幻三郎だったが、捻くれた遊び人の悪癖がどうしても治せずにいるのも確かだ。
次兄の奥方がからかって言う通り、他人に対してとことんまで素直になれないのである。
「禿げだぞ」
「関係ない」
「剣術しか知らんし、おもしろくもなんともねぇぞ」
「そりゃアあたしが決めんだよ。それに役者や芸人だって家じゃおとなしいらしいじゃないか」
「……減らず口」
「そんだけ好きなんだと思ってもらうしかないねぇ、けけけっ!」
どうやらこの場は負けを認めるより他ないようである。
2021/11/3更新。