時任幻三郎(1)
「むぅっ、面妖な!」
時任幻三郎は、慣れ親しんだ自らの頭部に起きた異変に、彼らしくもない驚愕の声を上げた。
大和映国を形作る大小あわせて8つの国のひとつ、土梯国。
代々その役人として勤める家の三男に生まれた幻三郎は、士官のあてもなく、25歳にもなる当年この年に至るまで気ままな遊び人暮らしを続けて来た。
彼が奇妙な夢を見たのは、つい一昨日の昼寝の最中であった。
ひいきにしている小料理屋の看板娘、凛が差し入れてくれた珍しい酒を飲んだ日だったから、よく覚えている。
酒飲みの矜持はどこへやら、たった1杯で真っ昼間から良い潰されてしまったのだ。
幻三郎にとっては、下手すりゃ剣試合で負けるよりもくやしい大事件であった。
「あの夢はまことだったか……」
幻三郎はその夢の中で、奇妙な紫の灯りに染まった、小さな茶室に居た。
美しい黒髪の女が点てた美味なる茶を喫し、異国の甘味を馳走になった。
女がこんなことを言った。
「そなたのまこと麗しき御髪を、どうかお譲り頂くわけには参らぬか」
髪を譲るとはどういうことか分かりかねたし、譲った髪がどうなるのかも一応、気になった。
だが、細かいことをあまり気にしない性質だと自覚する幻三郎は、
「髪を譲れば何ぞ賜りものでもござるか」
酒の席で悪ノリを重ねた時のように軽薄に言ってのけたのである。
「妾にできることであれば。そなたの望みは何じゃ? 酒か。食い物か。剣槍の腕前か、それとも女か」
「うむ。親兄弟に阿呆よばわりされぬほどには、剣術の腕前が欲しいところだの。頭が禿げ上がればどのみち士官は望めんし、己は正直、この腕一つで我が身を立てることさえ出来れば良い」
「意趣返しのためかえ」
「まあ……そんなところだの」
承知いたした、と女が言った。
幻三郎が立ち入った事情を尋ねなかったからなのか、女の方も深く彼を追求しようとはしなかった。
言葉少なく酒を酌み交わすうちに、ゆるりと紫の灯りが消えてゆき──そうして、目が覚めた。
「"まこと有難うござる"か……ふふん」
鋭利な剃刀と達人の技で見事に剃り上げたかのようにつるりと輝く頭を、幻三郎はまんざらでもない調子でひと撫でした。
1坪ほどの庭先で井戸水を浴び終え、愛用の青い着流しに着替える際、見える限りの自らの肉体が変化していることに気づいた。
以前から剣術に熱中して身体を鍛えては来た。
だが、どうしたことだ。
尋常の鍛え方では到底手に入らないだろう、刀鍛冶が作り上げたかと思わずにはおれぬほど鍛えられ、磨き上げられた理想的な肉体が、己の視界を占めているのだ。
いかにも優男といった風体をつくるのに一役買っていた、若い男にしてはほっそりした腕には、意識しなくても力こぶが浮き上がって見える。
首を巡らして左右の肩を確かめれば、明らかに力強く、しかも以前よりも滑らかに動くようになっている。
胸も、足も、腹さえも、鍛え方が足りないと師匠に言われていた以前とはまるで異なっている。
そう、これはまるで……異国の書物で見た『ぷろれすらあ』のような体格。
「ふぅむ。確かに己は、髪が自慢ではあった。士官の道もようやく諦めた。だがそれごときで、このような釣銭をもらってよいものかどうか」
どうにも納得しかねるまま、幻三郎は、知り合いの大工に手伝わせて自ら結んだ庵の壁ちかくに丁寧に置いた刀の前に歩み寄った。
大小の拵えをそれぞれ手に取り、鼠色の袴を身に着けた腰に刷く。
私利私欲のために用いず、市井の人々に害をなさぬと言う条件のもとに、ここ土梯国では役人でなくとも刀を携えることが許されている。
もっとも幻三郎の場合は兄のおさがりで、黒塗りの鞘などはところどころ塗料がはげ落ちて、いかにもみすぼらしい見てくれになってしまっているのだが……。
すぐれた才覚を持つ兄の言うことを真に受けるなら──顔を合わせるたびにうるさく言われていた小言などほとんど忘れてしまったが──、持ち物が持ち主の性格や状況を如実に示すのだとか。
だとしたらまず、知り合いの刀鍛冶のところへ顔を出すべきだろう。
そう考えた幻三郎は、わずかに残った金を手にして庵を出た。
2021/10/15投稿。