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木崎原の戦い ~ザ・包囲殲滅陣

木崎原きざきばるの戦いは、1572年、真幸院の木崎原において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。3000人の大軍である伊東側が、300人の小兵力しか持っていなかった島津側に敗北し戦いである。


 1571年6月、薩摩の島津氏十五代当主・島津貴久が没すると、大隅の肝付氏が島津領に侵攻し始めた。日向の伊東義祐はこれを好機と見て、薩摩・大隅・日向の境にあたる真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町)の完全支配を目指すべく、翌年の5月にいまだ島津が治める飯野地区への大攻勢を開始する。




1572年5月3日の夜中に、伊東祐安(加賀守)を総大将に、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、伊東祐青(修理亮)を大将とした青年武士を中心とした3000余の兵は、島津領との最前線に位置する小林城を出立する。ここで伊東は半数の1500を島津義弘の居城・飯野城の押さえとし、残る1500で義弘の妻子が籠もる加久藤城を囲んだ。加久藤城を守る守備兵はわずか数十名である。


 島津義弘は救援の為に兵を集めるが突然の事に300人ほどしか集まらなかった。これに義弘は「戦の勝敗は数の多少ではない。将兵が一丸となって勇気を持って戦えば必ず勝てる。この義弘に命を預けよ」と鼓舞した。義弘は敵を挟み撃ちにすべく兵を三つに分けて運用した。60の軍勢を加久藤城への援軍に、40の軍勢を敵の後方にある白鳥山の麓に潜ませた。そして130の義弘本体は敵の背後に軍を進める。



 その頃、伊東氏の軍勢は島津の軍勢が迫っていることに警戒し、城攻めを中断し軍を白鳥山方面に転換し飯野城の押さえとして残していた軍勢と合流し3000となっていた。その時、白鳥山で農民などが一斉に太鼓を打ち鳴らし、喚声を上げたため、伊東祐安は島津の大量の伏兵が出現した勘違いし、あわてて白鳥山から離れました。その瞬間を狙い島津義弘の本隊130が突撃をかける。混乱のスキを突き暴れるだけ暴れると敗走した。


伊東氏は兵を立て直すと義弘に追撃をかけようとする。しかし追撃をかけるも義弘は兵を素早く立て直し逆襲に打って出る。思わぬ攻撃に混乱した伊東氏は、後方から伏兵40、側面から加久藤城の援軍に向かった60、島津義弘の本隊130に攻め立てられ壊走した。



この戦いで伊東軍は幹部クラスの武士128人、それを含めた士分250余人、雑兵560人余りを失い、島津軍も士分150人、雑兵107人、参加した将兵300名中257名と8割以上を失うという壮絶な戦いとなった。


えっ? 殲滅できてないじゃないかって? ま、10倍以上の相手だから多少はね。

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