応援
汚い言葉が出てきます。
応援
最近の授業で、あることをきっかけとしておかしなことが起こり始めている。
噂が広まり、何で張り合うのかわからない。
最初は1人の生徒が間違ってアダルト動画を再生したことからだった。
その後に続くようにアダルト動画・・・ではなく動物の交尾の動画を授業中に再生するアホが湧いた。アホではないと思っていた真面目な生徒だった。結局は大学生は馬鹿をやりたいものなのだと思った。
性癖は晒したくないが、流れに乗りたい若者たちの訳の分からない意地の張り合いが、今、教員を困らせている。
猫、犬、ネズミ・・・一番空気が凍ったのは勿論最初のアダルト動画だが、その次がまさかのカマキリの交尾だ。きちんと最後の捕食シーンまで捉えていた。
最近お腹の調子が悪いのはそのせいだと思う。
「年も年だからね・・・・お医者さんでも行く?」
妻が心配そうにトイレから出てきた自分を出迎えた。
「そうだな。・・・・人間ドックは引っかからなかったけど、心配は心配だから。」
未だ残便感のあるお腹をさすりながら空いている日時を考えた。
「じゃあ、予約するからね。」
妻は安心したような表情をしながらリビングに向かった。
手を洗い、妻に続いてリビングに行くと、テーブルに温かい生姜湯があった。
「お腹、温めないとね。暫く油物は控えよう。私も中性脂肪が心配だから丁度いいわ。」
妻の優しさが身に染みた。
「・・・あの、薬局で買ってきてほしいものがあるんだけど・・・」
お腹の調子を崩して長い時間トイレにいると陥る現象がある。
「あら・・・また痔になったの?」
妻は少しおかしそうに笑った。
つられて笑うが笑い事じゃない。幸い大学の教員というのは立っている時間が長い。ずっと座っている仕事だったらと思うとぞっとする。
「お腹も痛くてお尻も痛いと、大変じゃない?」
「大変だ。」
妻は心配そうに見つめてしばらく考え込んでいた。
「お腹が痛い時は私は応援するわよ。」
「・・・応援・・・?」
「そうよ。誰も何も言ってくれないもの。トイレで一人って変な表情しても誰も見ていないし、何を呻こうが自由。」
まさか妻のこんな一面を聞くとは思わなかったが、参考になりそうにない。
「トイレで応援って」
お腹が痛い時にそんなことをして便座に座る自分を想像したら笑ってしまった。
人間ドックの結果は血圧と体脂肪に気を付けるようにという中年男性では一般的なものだった。
深刻な病気は無かったが、お腹の不調と痔は健在だった。
「生徒が最近変な張り合いを始めて参っている。」
「工学の授業なのに生物の動画を再生する。」
教員の部屋で上がる会話は最近ずっとこんなものだった。
「聞いてくださいよ。発表のスライドでいかに巧妙に動画を組み込むかが張り合いの基準になっていますよ。今日なんか発表しながら延々と背後で蟻の巣の様子を動画で流していました。」
「カエルの成長を倍速で流してオタマジャクシから丁度蛙になるころに発表を終えた生徒もいましたよ。それは感激しましたけど・・・何か違いますよね。」
「注意する教員もいますけど、その動画を組み込むことで発表の内容を分かりやすくコンパクトにするように努力している学生もいますからね・・・いい面もあって、胃が痛い面も・・・」
「というより、その動画はどこから持ってくるんでしょうか?」
生徒の状況と素朴な疑問が飛び交っていた。
昼休み後にいつもコーヒーを飲むが、最近はお腹が痛くてコーヒーは直ぐに下すから控えている。
ぬるい水を買って食後に中庭で飲んでいると、懸命に何かを撮影している学生がいた。
電柱に停まっている鳥にカメラが向いていた。
飛び立っていく様子を追っている。そして・・・
彼の目的がよくわかった。目的の動画が取れたようでガッツポーズをしていた。
次の発表の時にあの動画が流れるのかと思うと胃が痛い。カマキリの捕食まで行かないが、人間だったらR指定にかかる動画だ。
救いなのは、自分が受け持っている学生ではないことだ。そうなると、むしろ笑えて来る。
「最近調子いいみたいね。よかった。」
私の胃腸の調子が戻ってきたのを見て妻は安心したように笑っていた。
「じゃあ、そろそろ油物もご飯に出して大丈夫ね。あなたに合わせていたら私が油分撮りたくて仕方なかったし。」
妻は紅茶をすすり嬉しそうに笑っていた。
体調が悪いと機嫌が悪くなるというのはある。その逆で体調がいいと機嫌がいいのというのはあるが、何を持って体調がいいというのか最近わからなくなっている。いつから自分の体調がまっさらな状態を分からなくなったのだろう。
だが、胃腸の調子は良くなっているのは確かだった。
「それは有難い。僕もそろそろ動物性の油が欲しかったんだ。」
ここ最近野菜中心の精進料理のような献立で過ごしたのを思い出した。
食生活に気を遣った結果お腹の調子は良くなってきており、痔の方も落ち着きつつあった。
「先生しばらくコーヒー買っていませんでしたよね。」
学内の購買でコーヒーを購入していると一人の学生に声をかけられた。この学生はよく覚えている。確か、工学部の生徒だった。下の名前はありきたりな名前だが、苗字は覚えやすく、ジゾウ何たらという名前だったのは憶えている。
「あの・・・少し頼みがあるんですが、いいですか?」
ジゾウ君は、私がコーヒーを購入し終わって、用事が終わるのを待っていた様だ。
「どうしたジゾウ君。」
私はこの生徒が最近軽度の嫌がらせを受けたと主張していたことを思い出した。何か深刻な相談をされるのではないかと身構えた。
「いや・・・あの、先生。次もしグループを作ることあるならできれば女子と別にしてほしいんですよ。」
「え?」
「・・・実は・・・一人の女子と今仲が良くなくて・・・・」
ジゾウは気まずそうに言った。
私は予想外のことに驚いた。もちろん仲が良くないからと言って意図的に分けることはできない。それよりも私が驚いたのは、このジゾウという学生は、仲が悪くなるほど女子と交流を持つことがなさそうな生徒なのだ。いや、偏見は良くないが、授業中を見る限り女子と話す様子も見ていない。
そうとなると、彼が女子に対して不快に思うことをやってしまったのだろう。
「ジゾウ君。何かやったのか?そんな理不尽に怒るとは思えないんだ。」
私はジゾウ君の顔を見て諭すように訊いた。確か、彼が仲が良くないと言っているのは学部の中でも大人しい女子のはずだ。
「俺は流れ弾に当たったみたいなものですよ!!」
ジゾウ君は大げさに否定した。
「だいたい、ジュンイチが悪いんですよ。あいつがややこしい言い方してフルから・・・」
ジゾウ君は驚くことを説明し始めた。
彼の言ったジュンイチというのは、俗にいうモテる男だ。誠実で、おそらく誰からも好印象を持たれる類の人間だ。
彼が女子生徒の告白から逃れるために逃げ口にされ、自分が相手だと勘違いされたと言っている。
意味が分からないが、それがきっかけで嫌がらせされているようだ。
「それは、君とジュンイチ君の問題じゃないのか?」
深く考えると胃が痛くなる話題になりそうだったので、矛先を変えようとした。
「彼にも何度も言っているんですけど、彼には実害が無いので、全然です。先生から何か女子に言ってください。」
ジゾウ君は本当に困っているようで深々と頭を下げた。
「・・・目についたら言うようにする。ただし、出来るなら生徒同士で解決してほしい。」
私はそれだけ言うと、頑張れとだけ言って自分の居室に戻った。
何と胃の痛い話題だろうか。調子が良くなったのに、また悪くなりそうな気配がある。
頭を抱えて溜息をついていると同じ部屋の教員たちが何かを持ってきた。
「これ、午後の授業に向けてどうぞ。」
差し出されたのはチョコレートだ。丁度コーヒーを買ったばかりの私には嬉しい。
「ありがとうございます。」
差し出されたチョコレートとコーヒーを一緒に頂くと、やっぱり合う。
束の間の幸せを噛みしめ、次の授業内容を反芻し、資料を持って教室に向かった。
午後始めの授業はアクティブな方がいいに決まっている。なぜなら、真面目な生徒はいいが、教室後ろ部分を陣取る輩の顔を見ることが無いからだ。
そんな現象が起きるにも関わらず、なんとまあ、アクティブでない講義だ。
ほとんど教員が話して生徒は聞いてメモを取るだけ。ずっと話している身にもなって欲しいほど生徒たちは机に伏せていた。
ため息をつくとマイクに息の音が入ってしまった。
いけないいけない。前に女子生徒が年配の教授の鼻息がうるさいと話題にしているのを聞いてから気を付けているのだ。
マイクに気をつけようと思い始めたとき、急激な腹痛がきた。
やはりコーヒーはまだ早かったのか。
そんなことを考えながら時計を見ると、まだ40分以上ある。
下痢を予感させる時の堪えきれない痛みは何だろう。いつも思う。
脂汗が出て、何を言っているのかわからなくなってきた。
言っていることが支離滅裂なのか、数少ない起きている生徒たちが一人、また一人と机に沈んでいく。
今、頭の中にあるイメージは決壊前のダムだ。
あ、これはダメなやつだ。
「少し、休憩です。」
私は半分以上が寝ている教室から飛び出すように出て、そのまま近くの男子トイレに向かった。
授業中というのもあり、幸い誰もいない。
個室に入って便座に腰かけると、安心した。当然だ。ぶちまけてしまう心配がなくなるからだ。
誰もいないトイレということもあり、私は盛大にため息をついた。
「・・・だいたい、フラれた腹いせに他人に嫌がらせする女子の話を聞いたせいだ。」
私はジゾウ君との話を思い出して、それを腹痛の原因だと結論づけた。
予想以上の腹痛を伴った便意に私は唸った。痛みの波を超すためにひたすら別のことを考えようとした。何度経験してもこの痛みは辛い。妻に言われた応援を試そうかと思ったが、それよりも何かを考えようと思った。
「・・・だいたい何で人体に入るときは痛くないのに出てくるときは痛いんだ。外見もカレーのようで・・・・何で似ているんだ。どういう意図でそういう外見になったのか、鶏が先か、卵が先か・・・・」
私は意味のない呟きを始めた。だが、それは私の頭を刺激し、腹痛を和らげている気がした。
「いや、どう考えてもカレーが後だ。その場合、カレーは卵に該当するのか?」
思考が波に乗り始めて、流れるようにいろんな考えと言葉が湧いた。
「鶏は肛門から卵を産む・・・う●こは卵に該当するのか?そもそも、関係性が違う。卵は鶏になるという時間軸での繋がりがある。対して・・・・カレーはう●こになるが逆は無い。というより大体う●こになる。・・・なんだ。時間軸での繋がりはある。この理論で言うと卵がカレーだ。」
結論が出てきたが、この考察は何の意味もないものである。ただ、痛みから逃げるため考え続けているだけだ。
「クソ考察・・・いや、うん考察か・・・ぷふ・・・」
自分で考えてネーミングに思わず笑ってしまうほど余裕が出てきた。
だが、再び痛みが襲って来た。
もう夢中になれる考え事などない。
ならば
「痛い・・・はやく出てこい。」
言って楽になるのなら苦労はないが、何となく楽になった気がする。妻の言っていることも今の私にはいいのではないかと思った。
「・・・頑張れ、頑張れ、お腹痛いけど、頑張れ。」
私はひたすら応援することにした。
もうあの、うん考察のようなものを頭で繰り広げるのを止め、妻が言った応援を実践した。
応援の成果か、もしくは耐えぬいたからか、無事腹痛の元は排泄され、私は平和となった腹をさすり、手を洗った。
ここで一つ問題に気付いた。
マイクが入ったままだった。




