知ってるかしら @貸ボート
今回のテーマは貸ボート
公園にあるアベックが乗るあれです
「知ってるかしら」
ボートの片側で女が囁いた。
紅く染め上がったブラウスに同色のロングスカート。頭には薄紅色のツバの帽子を被っていた。一目見て深窓の令嬢と分かる清楚な女性だ。
ボクは油断なく夜の池の周囲に目を配る。どんな異変も見逃しはしない。
勿論、聞いているさ。
耳にだって神経を集中させている。
「昔ね、この池で自殺があったの」
女は喋り続ける。
「若い男女のカップル。
丁度、今の私たちの様な、ね。
それからよ。この公園の池には夜な夜なお化けが出るようになったのは」
そうとも、ボクは噂を知っている。
真夜中の公園の池。その真ん中にボートで漕ぎ出すなんて物好きな事したのだって、そのためなんだからさ。
他に理由なんてないだろ?
この公園の池には深夜に幽霊が出るって噂。ボクはその噂が本当かどうかを確かめるために来たんだ。
当たり前だろ。
噂では、人の乗っていないボートが池の真ん中に現れるって話だ。
そんな動画をばっちり撮って、ネットにアップできたら最高だろうさ。
「噂では自殺となっているのだけど、実は無理心中なのよ。
二人は恋人だったのだけど関係が上手くいかなくなって、別れ話が出てたの。
ボートでも別れ話が出た。
女の方は別れたい一心だったけれど男の方はそうじゃなかった。話が拗れて最後には男がナイフで女の首を切った。
ふふふっ。話し合いの場にナイフを持ってくるなんて、男は最初からそのつもりだったのでしょうね。呆れたものよ。
女は首をばっさり、半分程切られた。もうちょっとで切断される位よ。当然、出血多量で死んだわ。
ボートの中は女の血で一杯になってたそうよ」
ボクは暗視モードにしたカメラでボートの周囲をぐるりと一周する。
異常なものはなにもなかった。あるのは月を映す黒い水面。後は、時おり魚が跳ねる水の音だけだった。
「今日は外れかな」
ボクは独り言を言う。
「男の方はね。自分もナイフで死のうとしたのだけれど、どうしても首を切るのが出来なくてボートから身を投げたの。
女の方はあんなに強く切りつけたのにね。意気地がないのにも程があるわ。挙げ句に死にきれずに、助けられた。
つまる所、女の方の一方的な切られ損。自殺でも無理心中でもないわね。
噂なんて所詮そんなものねー」
女は真っ赤な舌で唇を舐めると肉食獣が獲物を見据えるように目を細めた。
女は男の目の前に傾いた首を近づける。
「だからね。女は夜な夜な馬鹿な男を探して池に現れるのよ。
知ってるかしら?もう、手遅れだと言うことを。
見えているかしら?この私が。
私はどちらでも構わなくてよ」
女は、そっと男に口づけをした。
「げほっ、げほっ」
突然むせ返るような生臭い風に包まれ、ボクは思わず咳き込んだ。そして、口の中に広がる鉄気に面食らう。血の味だ。唾を吐き確認するが、特に異常は見られなかった。
ブルリと身を震わせながら、ボクは首を傾げる。少し悪寒がした。
今日はここまでかとボクはボートを岸に戻すことにした。
口の中の血の味はまだ微かに残ったいる。
ボクはブルリともう一度体を震わせた。
2018/05/21 初稿
2018/08/19 後書き修正
男は最後まで気づいていません
見えない人には見えないのです
このあと男が無事に岸に着けたかは誰も知らない