片翼の蝶
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履き慣れない靴で歩いて、踵が随分痛い。
高校入学を機に買ってもらった革靴は、まだ当分俺と仲良くする気はないらしく、毎朝玄関でにらんでくる。俺だって負けてられないから、きっと睨み返して雑に履く。こんなやつと行く通学路は、踵を庇いながら歩いていっつも憂鬱だ。
「あれっ、二見じゃん。久しぶりだねー!」
突然だった。いつもの様に踵を気にして電車を待っていた俺の耳に、この元気すぎる声がキーンと響いたのは。
「・・・」
「えっちょっと待って無視っ?酷いなー」
・・・。
誰だこいつ。
困惑のあまり今俺は能面のような顔になっているに違いない。朝から駅のホームで大声を出すセーラー服の女子高生は、まったく俺の知り合いではない。
「もー久々会ったのにシカトしないでよー。おーい二見ー」
いや、もうほんと誰。何で俺の名前知ってんだよ。怖い、ほんと怖いもうやだ。俺に言っているわけではないのでは・・・と思いつつ視線を逸らすけど、やはり相手は俺のようだった。
「すいませんどちら様ですか・・・」
怖かった。怖かったけど頑張って聞いた。えらいよ俺。ほんと。
「えっ」
女子高生は、大分困惑した。
「・・・ほらあたしだよ!大蔵!やっだなーもう忘れちゃったの?ほんのちょっと前まで同じ中学の同じクラスだったのに」
「おおくら・・・?」
うーん、そんな奴もいたっけなあ。怪しい。
「藤第三中学でしょ。」
どうやら俺が忘れていただけらしい。
「二見ってそんな物忘れ酷かったっけ?」
お互いどこか困惑しつつも、大蔵が最後の台詞を言ったくらいで電車が入ってきたので、仕方なく乗り込んだ。
「って同じ電車なのかよ!」
「びっくりだねー。」
幸か不幸かそんなわけで、しかも車内の客もラッシュにしては少なくて、降りるまでの間、俺には予期せず記憶の片隅にもない元同窓生と喋る余裕が出来てしまった。
「えーじゃあさ、牧野とか佐野のことは覚えてる?あんたいっつも一緒にサッカーしてた。」
「サッカー?俺が?確かにうんと前は好きでやってた気もするけど」
「・・・えー。そうだっけ。流石、進学校行ったって聞いてたけど、やっぱ勉強ばっかなんだねー」
「そんなことないだろ。まだ入学して一ヶ月も経ってないんだし。」
「え、ごめん、何て?」
ちょうどすれ違った新幹線の音で聞こえなかったのか、大蔵は目を丸くして聞き返してきた。
「いや、もういいや。」
「・・・」
それからは、高校のこととか、色々と他愛のないことを話した。なかなか楽しくて、駅に降り立った頃には踵のことも忘れて、電車で去っていく大蔵に軽く手を振っていた。
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「おはよー。」
「はよー」
駅から学校へ歩くうちに、踵の痛みは戻ってきていて、俺はまた随分不機嫌だった。でもまあ学校についてしまえばこっちのもんで、あとは上靴に履き替えて革靴の方は狭苦しい靴箱に放り込むだけだ。
「・・・」
それにしても、まだ慣れない。教室という場所、その空気、クラスメイトにも。何だろう、何か疎外感があった。
そういえば、大蔵は随分慣れた風だったな・・・。
そうぼんやり思いながら席について、あいつのよれたスニーカーを思い出した。去年までは俺だって、あんなスニーカー履いて、学ランを着ていた。いいなあ、と思う。あいつだったら、何処にいても誰といても、すぐ慣れきっちゃうんだろうな。
でも、今日は随分話がかみ合わなかった。大蔵のことは確かに忘れていたけど、それでも他のいろんな奴のことなら、一人くらい分かるはずなのに。ほんとはあいつ、全然元同窓生なんかじゃなかったりして。なわけないか。
あほらしいと思いつつも、その日は大蔵の言っていた中学の頃の話を少しずつ思い返していた。
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それから何日間、大蔵とは毎朝ホームで鉢合わせして一緒の電車に乗っていった。多分話がかみ合わないのは、それだけ俺と大蔵の視点が違っていたということだろう。案の定大蔵とは、駅のホームにいる鳩に対する印象から違っていた。かわいくねぇわあんなもん。
「えーかわいいよ鳩。」
「どこが」
「んー、歩き方?」
何だそれ。
「二見はなんか好きな動物とかないの?」
「・・・犬とか猫とか。違うのか」
「知らないよ二見の趣味なんて。だから聞いてるのに。あたしはねー、飛ぶやつが好きなの」
「・・・」
「単純だと思ったでしょ今!」
「・・・別に?」
「つたくもー。あ、でもね、動物だけじゃなくて虫も好きなの。ちょうちょ。」
虫とか言い出すからぎょっとしたけど、何だ、まともだった・・・。
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そんな風に、毎朝十五分程度の踵の痛みを忘れる心地よい時間をすごす日々が続いたある日の放課後、下校途中だった。夕日がさす中、家の近所の道を黙々と歩いていると、ふいに通りがかった小さな公園に、人がいるのが見えた。
「・・・え、大蔵?」
何でこんなところにいるんだ・・・?俺の家からすぐそこの公園だった。大蔵は公園の隅にしゃがみこみ、何かを見ているようだった。
「大蔵!」
「はいつ!って何だ二見か、びっくりさせないでよ」
「お前、家この辺なのか」
「・・・うん、まあね。」
いきなり大声で呼んだのが悪かったのか、随分歯切れが悪い。
「何してんだよ、そんなとこで」
「あー、うん、ちょうちょをね、見てた。」
ちょうちょ・・・?確かに覗き込むと、大蔵の指に、おとなしくアゲハ蝶がとまっていた。
「すごいな、お前。」
「ううん、違うの。飛べないんだ、この子。ほら。左右で羽の大きさが違うの。触角も。」
「・・・あ、ほんとだ。どうすんだ、それ」
「わかんない、わかんないけど、かわいそうだよね。かわいそう」
大蔵は、蝶ではなく俺の方をまっすぐ見た。
その時、俺は衝動的に方向転換して駆け出していた。
大蔵を残して、家に駆け込んで、無造作に靴を脱いで自分の部屋に入る。そして、ぎゅうぎゅう詰めの本棚から、中学の卒業アルバムを取り出した。
何でもっと早くこうしなかったんだろう。もっと早く、大蔵と会ったあの日、すぐ確かめるべきだった。
アルバムを開く。クラスのページ。
俺の頭の中の思い出は空っぽだった。でも、並んだ顔写真たちの中には、自分も大蔵も、大蔵が言っていた元同窓生たちも、みんながいた。
今年は平成二十七年。でも俺が卒業したのは、このアルバムによると、平成二十五年だった。
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「棗ちゃんでしょ、大蔵棗ちゃん。この前道でばったり会ったわよ。ええ、それであんたのこと説明したわよちゃんと。あんたもちゃんと言ってあげなきゃ、かわいそうじゃない。幼馴染が自分のこと忘れてるなんて。」
自分でも馬鹿だと思う。お袋に聞いたところによると、一年前、俺は事故を起こしていた。頭を強く打って、その直前の記憶しか残っていなかった。高校の入学式だった。とまあそんなことは後の話で、この一年間俺は眠り続けていた。眠っていた間の記憶はもちろん、目覚めてしばらくは意識が混濁していて、自分が眠り続けていたこともわかっていなかったのだ。
「どうりでお前のこともわかんないよな。」
写真の大蔵は今よりちょっと髪が長かったようだけど、カメラに向かってにっと笑う顔は、今とまつたくかわりない。
迎えに行こう。公園に置き去りにしてしまったから。そして、俺のこと、ちゃんと俺から言わなきゃ。あの蝶のことも、まだどうしようかと困ってるなら、一緒に考えよう。
そう思って玄関に降りると、さっき適当に放り出した靴が、俺を見上げていた。こいつも事故から一年、俺が履くのを待ってくれていたと思うと、かっと胸が熱くなった。