第五話「先立つモノはありますか」
コンクリート敷きのやや急な階段を降りていくと、ガラス扉の付近では最新式の電子ピアノがずらりと待ち構えてくれている。
入り口から一歩踏み入れると左には教則本やピック等のこまごまとしたアクセサリー類が、右にはDJ機材などが陳列されていて……目当てのブツは最も奥に陳列されていた。
「……迷路みたいだな」
思わず広樹の口から正直な感想が漏れる。
ここは、バンドブームに当てられた地元の若者達の「聖地」とも呼べる大型の楽器店だ。駅前の大型商業ビルの地下一階にあり、奥には練習スタジオも併設されているという。
店内には既に近辺の学校の制服を纏った中高生達がひしめいており、展示品のギターの弦が爪弾かれる音があちこちから鳴り響いていた。
「すっげえよなあ……つか、俺あんまり意識してなかったけど、楽器って何気に高くね!?このピアノとか、ゼロ一個多いだろどう考えても」
「何気にも糞もねえだろ!高けーんだよ実際!」
二人のやりとりを聞いて、綾乃が堪えきれずクスクスと笑い出す。
何だかんだで三人でバンドを結成するという話が纏まってしまってから数日、卓たちは放課後に示し合わせてここを訪れていた。何せ自分達には今後の活動をするにあたって、「楽器を持っていない」という、最大のネックが存在しているのだから。
「あ、でもほら……ピンからキリまでって感じだよ?あっちの壁に掛かってるのは二十万とか三十万とかの世界だけど、こっちは五万とか六万とかでお手頃価格だし」
綾乃はつかつかとギターのコーナーに歩み寄って値札を指し示す。素人の自分には、見た目だけでは二〜三十万クラスと五〜六万クラスの違いが全く分からないのだが、これが多少弾きこなせるようになってきたら区別が付くのだろうか?広樹はちらと思う。
「五、六万でも高けーな……千円くらいの奴とか無いの?」
「せんえん!?さ、流石にそれは難しいと思うよ卓君……」
「よーしいい事思いついた。お前、ギターじゃなくてコレの担当になれ。ホレ、両手セットでも600円だ。お買い得だぞ」
そう言いながら、広樹は満面の笑みで卓にマラカスを押し付けようとする。
「なーんだよー!!じゃあ何だ、お前らはこのお高い楽器買えるほどの手持ちあんのか!?」
それを払いのけた卓は、頬を膨らませながら広樹と綾乃の顔を交互に見た。
「まあ、俺はお前と違って真面目に小遣い貯めてるから」
「私も……両方のおじいちゃんおばあちゃんが元気だから、会うたびに結構お金くれるんだよね。勿体無いから使ってないけど」
「…………」
三者間に今、かつて無いほどの沈黙が生まれる。
「あ、でもほら!この初心者向けのセットなら本当に安いよ!アンプとか肩ヒモとかセットで一万ちょいだし!半年前のお年玉の残りでじゅうぶん買える金額だよね?」
機転を利かせて綾乃が口を開く。広樹もそれに続くようにして畳みかけた。
「まさかいくらお前でも、自分名義の口座の残高が一万円以下ってこたねえだろ?もしくは……本気で千円くらいでギターが買えると思ってた訳じゃねえよな?」
「…………」
段ボールに入った雨の日の捨て子犬のような眼差しを向ける卓。広樹と綾乃はようやく、卓の一連の発言がすべて「素」だった事に勘付き始める。
「あ、ほ、ほら!えーっと何だ、ここにあるのは全部新品っぽいからさ!中古で探せばもっとお値打ちのやつも見つかるかもしんねえぞ?」
「そ、そうだよ瀬川君の言うとおりだよ!あとは……そうだ!受験に集中するために先輩がギターを手放すってこともあるかもしれないし、譲ってもらえるかも……」
「……広樹、綾乃……」
大慌てでフォローをしようとする広樹と綾乃に対し、卓は悟りの境地に達したかのような微笑みでその言葉を遮る。
「俺、何か急に用事思い出しちゃったわ……今日は帰るな……」
普段は無駄にポジティブな馬鹿が、本気で自分の馬鹿を自覚して打ちひしがれている時というのは、ここまで絡みづらいものだったとは……
広樹と綾乃は困惑し、ただ卓の背中を見送るだけだった。
※ ※ ※
家に戻るや否や、卓はさっそく引き出しの中にしまっていた自分名義の通帳を手に取る。
前にこれを開いたのは二ヶ月ほど前だ。100巻近く出ている漫画の単行本をフルセットで揃えたくなって、お年玉を引き出した。それでも足りなくて、母親の皿洗いの手伝いなどをして日銭を稼いだような。ということはつまり……
「残高……さんびゃくにじゅうえん……」
ATMで引き出せなかった端数の金額が、黒い文字で燦然と刻まれていた。