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夜凪が出てきたときは、すでに空は夜の海のように暗くなっていた。
「……待ってたのか」
驚いたように目を見開き、ソファーに起きっぱなしだった鞘を包んだ布を持ちあげる。
「ええ。コーヒーを奢ってもらって、そのまま帰るってわけにはいかないでしょ」
躑躅もおなじように布を肩にかけて、ソファーから立ち上がった。それにしても、彼は表情がまったく変わらない。躑躅自身も、それほど表情豊かというわけではないが、彼女以上に彼は表情が変わらないように思う。
「気をつかわれるのは、苦手なんだがな」
「気にしないで。気をつかってるわけじゃないから」
本部のビルは、どこにでもあるようなビルだ。ただし、「木の鶏」とはどこにも書いていない。ただ、架空の名義として「古林商会」という、ありふれて逆にあやしい名前となっている。
そのビルをあとにしても、躑躅の後ろには夜凪がついてきていた。
放課後に家があるのはこっちだ、と言っていたから特別なにも思わなかったのだが、おかしい。ぴったりとくっついてきているのだ。
「ねえ。あなたの家って、まだなの?」
星々が加工されたダイアモンドのように輝いている。降り終わった雨のしずくのような空の下、夜の名前をもつ、夜凪は表情を変えずにこう言った。
「とっくに過ぎている」
と。
何でもないように呟いた夜凪の目は、黒い真珠のようだった。ただ、純粋にこちらを見つめている。
「……暗いだろ」
「――気をつかわれるのはいやなのに、気をつかうのはいいの?」
(かわいい女子として、だったら――わあ、うれしい。――とでも言うのだろうけど。)
(私は、別にかわいい性格でもないし、男子に好かれようなんて、おもわない。)
それでも彼は、なにも言わない。言ってはくれなかった。
「残念なことにな」
肩をすくめて、先をうながす。ここで、振り切れば良かったのかもしれない。それでも、こころのほんの片隅で、うれしいと思ってしまうのは、一生の不覚だ。そう思わなければ、今までの「生き方」をすべて否定することになるのだから。
「へんなひとね。あなた」
「おまえこそ。へんな女だな」
「ふふ……っ、お互いさまね」
まだ、互いのことを何も知らないのに、ほんのすこしだけ――心をゆるせるようなひとになれたらいい、と思う。
そう。
まだ、なにも――なにも、知らなかったのだ。
「私の家、ここだから。どうもありがとう。わざわざ送ってくれて」
「ああ」
「それじゃ、また明日ね。おやすみなさい。斑鳩くん」
彼は、ふいとそっぽを向いてうなずいた。
電灯がずっと続く住宅街を、夜凪が見えなくなるまで見送る。なぜ、そうしたかは分からない。
兄の声で我に返り、あわてて家の中に入ると、ストーブがきいていてひどくあたたかかった。
(彼の家にも、迎えてくれるひとはいるのだろうか――。)
アカシアのかおりがした。
いつかの罪を思い起こさせるような、ささやかなかおりがする。
めくられたカレンダーが、あったはずの日々を返してはくれないように、犯した罪は決してなくならない。
いくら罪をあがなおうとも。彼女が忘れない限り、それは決してなくなりはしない。
百代を刀掛けにおいたまま、それをただ見つめる。
彼女は、希有だ――と、誰かがつぶやいた。
(ああ――たしかに。たしかに彼女は。)
たしかに、そうだ。なにも――なかった。
誰もいない。なにもない。
空音の色をした目。ないものを見えているかのような目。
膝にあてていた手のひらを握りしめる。
守らねばならない存在など、はじめからなかった。
彼女はひとり凜と生き、傷つくことをおそれず、それどころか――ほかの人間たちさえ必要としていない。
夜凪の目にうつったのは、背筋を凜とのばし、空音を見上げる――弱い少女だった。
(危なっかしい。)
おのれとて、強くなどない。アラミタマを封じる日霊たちは、みな。
みな、こころにうしなった半身をさがすように、うしなってしまった思い出を探すように、弱く、儚い。
鴉の濡れ羽のような色の目。
膝にのせていた手のひらが、ゆるむ。なにも恐れているわけではない。まだ、――そうだ。まだ、だ。
「まだ――危うい」
彼女はおそらく、こころの底では憎んでいる。
アラミタマのことを。おなじく夜凪も、あの魂たちを憎んでいる。
ひととは、そういうものだ。憎しみ、怒り。そういうものを含めて人間と言えるのだから。それらがない人間など、存在しないだろう。
――こころをうしなってしまった人間以外は。
そういうひとたちを、夜凪は知っている。かわいそうで、とても愚かな人間たち。
こころを失い、そしてそれを強さとするものたちを、夜凪は幼い頃に見た。
「………」
ふいに、スマホの画面が点滅しだした。おそらく、電話だろう。
画面には、見知らぬ数字がほのかに光を放っている。夜凪は画面をスライドさせて、スピーカーに耳をあてた。
「夜凪くんだね」
名も言わない、男の声が聞こえてくる。
しかし、夜凪には分かった。その声が誰なのか。だからただ「はい」と答え、そのすがたを目に浮かべる。――夜天光錦秋。躑躅の兄。目を伏せ、彼の次に言う言葉を待つ。
「――そうか。躑躅が言っていた。斑鳩夜凪という男と知り合いになった、と」
「……俺には、彼女を守ることしかできません。約束を違えるつもりもないし、父が犯した罪を生涯かけてつぐなうつもりです」
錦秋はただ夜凪の言葉を聞き遂げ、そうか、と呟いた。
重たい沈黙の合間に、思い出す。
おのれの父親が犯した罪は、日霊として赦されるものではない。
「きみの父親――高範さんはどうした」
「――死にました。1年前に」
「……そうか。しかし、罪を犯した彼はもう亡くなった。罪を背負うべき人間は、もうこの世にはいない。いや――あれは罪ではないな。人間としてあるべき姿だ。だから、背負う必要もなにもない」
人間としてあるべき姿。そんなはずはない。日霊として、アラミタマを戦う宿命を背負ったのは、たしかに不本意だったかもしれない。それでも、ちがう。厳しかった父が、あんな姿になることが、絶えられなかった。
「いいえ。あれは、日霊としてあるまじき姿――恥ずべき事です。あの男のせいで、錦秋さん、あなたたちの家族は……」
「きみもまだ若い。生を投げ捨てるようなことを言うのはやめてくれ。こちらとしても、心苦しい。それに――躑躅が庇護されるべき対象と言われて、喜ぶと思うかい?」
「………」
おそらく、否――だろう。
彼女に出会ったのは、2年前。あの日――雪が降る、とても寒い日だった。だが、彼女はこちらのことを覚えていないだろう。父、高範がおかした罪でさえ。
「――これだけは言わせてくれ。どうか、このことは秘密にしておいて欲しい。躑躅はもろく、いまだ弱い。これ以上、苦しめることのないように」
「ですが……」
「お願いだ」
ひどく険しい声色を聞き、夜凪はそっと息を吐く。
自分の父親が、彼らの両親に対して犯した罪は、けっしてぬぐえるものではない。
しかし、錦秋は内密にしてほしいと言う。夜凪は、それを承諾することはできなかった。だが、彼のことも分かる。
日霊は憎んではならないという、大原則を犯してしまえば――どうなるかどうかは、痛むほどに分かるのだから。
「――分かりました。言いません。日霊の名に誓って」