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「そう。材木はあなたたちが使っている物とおなじ、ホオ。だけどこれは――。そうね、手にとってもらった方がいいかもしれない」
遊糸はケースの鍵を開け、手に取るように促した。促されるまま手に取った躑躅は、その軽さに目を見開く。
今までの鞘は、重かった。そして、すぐにヒビが入ってしまっていたのだ。しかしこれは、今までの鞘とどこかちがう――。
「すごい。……軽い」
「あなたたちが今までだめにした鞘の数は、おそらく――両手じゃ数え切れないわね。だから、こさえてもらったのよ。軽くて丈夫で――あなたたちの楯になるようなものをね」
「楯?」
躑躅が眉をひそめ、その言葉を反芻する。遊糸は両手を腰にあてて、まったく、と苦笑いをした。
「鞘は盾にもなるし、矛にもなる。そう口酸っぱく言ってきたわよね? 躑躅ちゃん」
「う……」
「まあ、まだ研究段階なんだけどね。それに、夜凪くん。支所から聞いたわ。あなたも、ずいぶん無理をするみたいじゃない。まだうら若き子どもたちなんだから、傷なんかつけるものじゃないわよ」
「俺は男――」
今まで押し黙っていた彼は、ようやく口を開くも、それは遊糸の声で遮られた。
「男か女かなんか関係ないわよ。まだ若いんだからってこと! ほら、持って行ってちょうだい。そして、次の対アラミタマ戦でレポートを提出してちょうだいね」
「れ、レポートですか……」
「あら、いやなの? 躑躅ちゃん」
「そういうわけじゃないんですけど。宿題がひとつ増えたってことですね……」
「そういうこと。まあ、学生なんだから、レポートなんてちょちょいのちょいでしょ?」
学校は、自由な校風だが宿題が多い。これ以上宿題が出されたら、躑躅の頭はパンクしてしまうだろう。
俯いた躑躅の、黒くつややかな髪がほおをすべり、ちいさく揺れた。
「あと、用事はもうひとつ。三階のロビーで、待っていてちょうだい。健康診断があるから」
彼女はそう言うと、颯爽と部屋から出て行ってしまった。
残された二人は、顔を見合わせてから鞘を持り、エレベーターに向かう。長い廊下は、LED照明でとても明るい。この廊下は窓がないから、月の光も日の光も入らない。
ここには、時間など存在しないかのようだ。
「……ねえ、斑鳩くん」
「なんだ」
エレベーターのなかで呟いた言葉を、夜凪はじょうずに拾い上げた。
「あのさ、もし、もしよ。アラミタマがこの世界にいなかったら、どうしてた?」
「どうしてたって、――ふつうだっただろうな」
「……そうね。そしたら――」
父も母も、死ななかった。
ふつうに、女子高生として生きてこれただろう。戦うこともない。怪我をすることもない。
だが、それすら――そのあこがれすら、今は許されない。
ロビーのソファーに座っていると、目の前にコーヒーを差し出される。おもわず顔をあげると、夜凪が無表情で紙コップを握っていた。
反射的に手が出て、コーヒーが入った紙コップを受け取る。
「あ」
やぼったい黒く長い髪。そして、ひどい顔の躑躅が、自分を見返す。
「ありがとう」
背を丸めて隣に座った夜凪は、ずず、と音を立ててコーヒーをすすった。不器用なのかもしれない。夜凪も、躑躅も。
ふつうに暮らすことは、もう無理だ。アラミタマは存在するのだから。存在しない世界などを夢見ても、傷つくだけ。こころのうつろを広げてしまうだけだ。
だれも傷つかない世界なんて、ない。それでもこの世界に、人を傷つけるための理由はないだろう。それでも人は傷つき、だからこそ強くなる。
そこに取り残されたひとがいるともしらずに――。
「意外と、やさしいのね」
「そうだな」
「なにそれ。ふふ、おかしい」
「ひとは、優しくなれる」
「………」
「だから、生きていられる」
「――そうね。あなたの言う通りよ。ひとは、やさしくなれる。それでも――傷をつけるための、凶器にもなる。おかしいものね。どちらかにすればいいのに」
あたたかいコーヒーをひとくち飲み込み、花の香りのように吐息をはき出す。
矛盾がある。世界は、ひとつじゃない。
真実も嘘も、あるいは。
遊園地のミラー・ルームのように。根っこはひとつなのに、そこから生み出されるものは、たくさんある。
「矛盾する生き物よね。人間って。コーヒー、ごちそうさま」
「ああ」
からになった紙コップを持って、備え付けのゴミ箱に捨てる。
夜凪はいまだ、コーヒーをすすっていた。ちびちびと、酒のように(飲んだことはないけど)。
「言うかどうか迷ったけど、あなた、飲むの遅いわね」
「……猫舌なんだ」
言いづらそうに呟く夜凪がすこしおかしくて、笑ってしまった。
「夜天光さん、斑鳩さん」
ふいに女性の声に呼ばれ、顔をあげる。そこに立っていたのは、女医なのだろうか、白衣をきたきれいな人だった。
「健康診断があります。さきに夜天光さん。こちらへどうぞ」
「あ、はい」
聞いていなかった。いや――聞かなかったのか。
部屋に入ると看護師に体温を測るように言われる。耳に測定器を入れられ、すぐに計ることができた。女医は「平熱ね」とわらう。
聴診器であちこち冷たい金属で触れられて、おもわず背中が引きつった。こういうものは、慣れていない。
「よし。正常ね」
「どうも……」
ちら、と胸の名札を見ると、どうやら彼女の名前は「柊」というらしい。名前は分からない。
「ええと、柊……先生。あの、どうして急に?」
「ごめんなさいね。急で。やっとここに帰ってこれたのよ。今までは支所にいたの。でも、明日、またちがう仕事が入っててね。明日の朝一で行かなきゃ行けないのよ」
「そうなんですか。た、大変ですね」
「ええ。でも、好きでやっていることだから。夜天光さん。あなた、ちょっと生傷が多すぎね。なにか、心配事でもある?」
いきなりこころの内側をつかれたように、おもわず息をのむ。
手の内がわに、じわりと汗がにじんだ。無意識に、くちびるを噛む。
「――いえ。特に……」
「そう? なら、いいんだけど。まあ心配事があったら、名刺に携帯電話の番号書いてあるから、気軽に電話して」
「あ、はい」
ほじくりだして欲しいわけではなかったから、ほっとする。しかし、意外とあっさり切り返したことに、すこし驚いた。
もういいわよ、と告げられて、すこし呆気にとられたまま夜凪に代わる。ここで帰ってもいいが、コーヒーも奢ってもらった恩もあるし、待っていてみようか。
ロビーは静かで、後ろは回りこむように窓がはめ込まれている。灰色の空が、町中を垂れ幕のように広がっていた。