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「それは分かるな」
ちいさな笑声。
夜凪はベランダに体を預けて、そっと息を吐く。白いもやが蝶のように舞った。
「じゃあ、私とあなたは初対面って事で」
「そうだな。そのほうがいい」
「いや……。もうこの状況じゃ初対面ってことはちょっと無理があるかもしれないわね」
なぜなら好奇の目で見られているのなら、おそらく「どこかで会った」というシチュエーションに見えているのだろう。
がくりと頭を落とし、「目立ちたくなかったのになあ」とうめいた。
「……悪い」
「いいよ、別に。仕方ないから、どっかで会った? うーん、会ったかもしれないわね? っていうことにしましょ」
「ああ、そうだな」
じゃあ、と言い、躑躅はベランダから教室のなかに入る。女子の視線が痛い。おそらく「どんな関係なのよ!」と言いたいのだろう。いや、たしかに目はほぼ隠れているものの、端整な顔だちをしている。
まあ、豪語できるような関係ではないのだが。
「ちょ、ちょっと躑躅! どういうことなの!」
ほら来た。
まだ予鈴が鳴らないのをいいことに、翠が早口に小声で叫ぶ。
他の女子や男子も、ちらちらとこちらを見ていた。目立ちたくないと言ったのに。
「さぁ。どっかで会ったような気がしただけよ」
「そうなの? ふうん……」
すこし、おもしろくなさそうに頷く。そこで予鈴が鳴り、翠はしぶしぶ自分の机にもどった。
彼女の黒曜石のように黒い瞳。
それがほんのすこしだけ、憎しみの色をしていたことを躑躅は知っている。時折、彼女はそういう目をするのだ。卑屈ににじんだ瞳。その瞳の恐ろしさをも、躑躅は知っていた。
ほんんとうの友達なんていないことも、理解している。
それでも、憎めない。日霊の憎しみは、常人よりも余計にアラミタマを呼ぶのだから。
今日最後の授業が終わると、再び昼休みに回りきれなかった校内を案内しようと朱音が夜凪に言ったが、彼はかぶりを振って、こう言った。「大体は分かったから、もう必要ない」と。
躑躅は鞄の中に教科書を入れ、昨日破ってしまったコートの代わりを買いに行こうと席を立った。
もちろん、夜凪の顔は見ずに。
廊下を歩き、下駄箱に上履きとローファーを交換しようとしたとき、その隣の人間にぎょっとする。
「……ちょ、ちょっと……斑鳩くん。どうしたの? ずいぶん早いじゃない」
「校内は大体見たからな。それに、正直うるさくてかなわん」
うんざりした様子で、夜凪は靴をはき始めた。まあ、たしかに。まだよく知らないが、彼の性格から言えば騒いでいるよりも、静かなほうを好むだろうから。
「おまえ、寒くないのか? ブルゾンだけで」
「そりゃ、寒いわよ。だって、昨日の……で破れちゃったんだもの。今日、買いに行くのよ。あれ一枚しかなかったから」
「そうか……」
どこか悪いことをしたとでも言うように、夜凪は俯いた。
「別に、あなたのせいじゃないわ。私が未熟だっただけ。それだけよ」
本心を述べても、夜凪はどこか納得していないような表情で再び「そうか」と呟く。
校門をでても、夜凪は躑躅のとなりを歩いた。彼女は男性と一緒に歩くことなど、兄以外なかったからか、ひどく違和感を覚える。
「ねえ、なんでついてくるの?」
「なんでって。俺の家はこっちだからな。それに、本部に呼ばれている」
「そ、そうなんだ……。それにしても斑鳩くん、あなたって結構もてるみたいじゃない」
「別に、興味ねぇな」
そっけなく、夜凪は呟いた。躑躅自身も言えたことではないのだが、夜凪も意外と冷めた人種らしい。
やがて歩いていると、躑躅の携帯に着信が入った。発信者は「木の鶏」のようだ。スマホを耳に当てると、荘厳な音楽が後ろで流れている。
「もしもし?」
「もしもし。俺俺」
「……詐欺師に用はないわ」
「待って待って! 俺だよ! ウイスタリア!」
まあ、知ってはいたが。
六花ウイスタリア。彼は躑躅が所属しているグループの次期班長だ。年は26歳。将来有望と言われているが、口が達者で、木の鶏内でよくナンパをしているらしい。
「で? 何か用?」
「うーん、その冷たさも好きだよ。躑躅! いきなりで悪いんだけど、本部に来てくれないかなあ? 堂元さんが呼んでいるんだ」
「……。なんてタイミングなのかしらね……。分かった。今から向かうから」
ウイスタリアが囁く意味不明な愛の言葉を途中で切って、ブルゾンのポケットにしまう。
ため息をはき出して、「そういうことだから」と夜凪に呟いた。
「……何してんだ」
後ろを時折ふりかえる躑躅を不審そうに見下ろす夜凪は、あきれた声色をしている。
「なにって、あなたのあとを着いてくる人がいるかどうか、確認しているのよ。よし、今のところ顔見知りはいない……」
「――そんなに、目立ちたくないのか」
「そりゃ、目立ちたくないわよ。目立ったって、ろくなことにはならないもの」
「ろくなこと……か」
「そうよ。もういやってくらい、私は――」
そこまでつぶやき、くちびるを噛みしめる。
目立ったら目立った分だけ、しっぺ返しが必ずくるのだ。
だから影と同化するように、名もない星のように、生きていかなければならない。もう二度と、あんな痛みをおいたくない。うしないたく、ない。
足もとに凪いだ海の軌跡が、二度とそのくるぶしを撫でないように。
「惨めになるのは、もうやめたの」
独り言を呟いて、せかすように足を前に出す。
夜凪は、何も言わなかった。
「やあ! 躑躅。会いたかったよ!」
木の鶏のロビーで出迎えたのはウイスタリアだった。翡翠の目、金いろの髪を揺らして、嬉しそうに手をあげる。
抱きつこうとした彼はすかさず距離を取った躑躅に、くちびるをとがらして「ちぇ」と唸った。
「冷たい!」
「いつものことでしょ。ウイスタリア。それよりなに? 堂元さんからの用事って」
「堂元さんに呼ばれたのか。おまえも」
「なに、この目つきわるい人」
ウイスタリアはじろりと躑躅の横にいる夜凪を睨む。睨まれても微動だにしない彼は躑躅に問うも、肩をすくめただけの彼女に聞いても無駄だろうと思いついたのか、それ以上なにも話すことはなかった。
「ちょっと、無視しないでよね!」
「はいはい。ウイスタリア。ちょっと黙りなさい。躑躅ちゃん、夜凪くん。よく来たわね」
エレベーターから現れたのは、ベージュの品のいいスーツを着た遊糸だった。黒い髪を後ろで束ね、眼鏡をかけている姿は、40代には見えないほど若々しい。
「はい。堂元さん、用事とは何ですか?」
「二人とも、こっちにいらっしゃい。見せたいものがあるの」
長い廊下を通り、いちばん奥の部屋の扉を開ける。アルコールのようなにおいが鼻をつくが、そこに横たわっているものに目を見開いた。
「これは……鞘?」
まるでダイアモンドのように透明に輝くアイスグリーンの下緒。そして鞘は決して派手ではない漆黒の色。それが二つ、透明なケースの中に入っていた。