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「ん……」
チャイムが鳴る。
それが目覚めの合図のように、躑躅の声が聞こえた。
「夜天光」
「ぁ……わ、私……」
ぼんやりとした色をした赤い目が、夜凪を見上げる。
「私、どうしたの」
「覚えていないのか」
「……夢をみたわ」
白いかけ布団の上で手を組んだ躑躅は、ぼうっとしたまま、ほの赤いくちびるを開く。
「女のひとが、白衣と緋袴を着ていて、歌っているの。黒くて長い髪をしていて、顔は見えないけど、きっと笑ってるわ。どんな歌か分からないけれど、なんだか懐かしい声と歌だった」
「………」
「私、新しい刀をもらったわ」
「そうか」
「ほっとした?」
「そうだな」
「あんな無茶な戦いは、もうしない」
夜凪の目が、軽く見開かれる。
自ら命を投げ出すような戦いしか見てこなかった夜凪にとって、その発言は驚くべきものだった。
「あの女のひとを見たら、このままじゃだめだって、そう思った。おかしいわね、ただの夢なのに」
「……いや」
「斑鳩くん。ごめんね」
「なぜ謝る」
「大変だったでしょ。私のお守」
ひとつ、まばたきをした躑躅は、ゆっくりと起き上がる。
夜凪の顔をみた彼女は、くすりと笑ってみせた。
「あなたもそんな顔するのね」
「……おまえらしくもないことを言うからだ」
「私らしくない、か。そうかもね」
吐息のように呟いたことばは、カーテンを引いた音によってかき消された。
「夜天光さん、大丈夫?」
「はい」
「そう。めまいとかは、ない?」
「大丈夫です」
「でも顔色、あまりよくないから、今日は早退しなさい。担任の先生には言っておくから」
「……分かりました」
躑躅は素直にうなずき、教室に戻るために保健室を出た。
後ろから、夜凪がついてくる。
昼休みをつげるチャイムが鳴った。
「夜天光」
「なに?」
「たぶん、クラスの中の誰かだ」
「……そうね。十中八九そうでしょうよ」
「鞄、俺が取ってくるか」
夜凪の言葉に、躑躅はぴたりと足を止めた。
黒く長い髪が夜凪の目の前で、さらりと流れる。
「いい。私が行く。私の鞄なんだから」
彼女の目は、まっすぐ夜凪を見ていた。
大勢の生徒が昼食をとるため、または購買へ行くために、それぞれ散らばっていく。
廊下の真ん中に立ったままのふたりを、迷惑そうに避けて歩いていた。
「おまえだけを狙っていること、分かっているのか」
「分かっているわ。あれの姿、私には見えた」
「……誰だ」
「………」
躑躅のくちびるが固く閉じられる。
その名前を言うのを、ためらっているようだった。
「夜天光」
「放課後。電話、するわ」
そう言い、躑躅は再び夜凪に背をむける。
長い髪を揺らして、彼女は自分の教室に入っていった。
「……あ、躑躅……」
翠が、躑躅の机の前に立っている。
その目。
その目は、どこかいらついているような、妬んでいるような、そんな色をしていた。
躑躅は、知らないふりをする。
「私、まだ具合悪いから、早退するね」
「あ、うん……」
よそよそしく、翠はうなずいた。
机の横に引っかけておいた鞄を持ち、ロッカーから真冬より薄手になったコートを着込む。
そのまま廊下を出て、玄関で上履きから靴に履き替えた。
正門を出る生徒は、躑躅だけだった。
正門から出て、一度足をとめる。
ふっと、冷たい風が躑躅のほおを撫でた。
『あなた。』
『わたしの――。』
「……?」
かすかな、女性の声。
まるで、夜をあらわすような。
静かで、深く、こころに沁みこむような、声。
「だれ?」
『あなたは、わたしの――。』
そらから降ってくるような、そのことばの端を見つけるように、上を見上げた。
『ねぇ、はなさないで。あのひとの、手を。もう伸ばして、いるでしょう? あなたは、わたしができなかったことを、して。』
徐々に、その声が消えてゆく。
波が海にかえってゆくように。
「……え……?」
躑躅の手のひらに、いつの間にか、かんざしがあった。
かなり古いようで、ところどころ錆びている。
意匠は鶴と松、そして鳳凰と竹だろう。
呆然と手のなかにある、古いかんざしを見下ろす。
それから、数秒。
躑躅は手のなかのかんざしを、ハンカチで包んで鞄に入れ、足を一歩、踏み出した。
なぜか、大切にしなければいけないと、強く思った。
「斑鳩くん」
放課後、よく躑躅と話している、という印象の女子生徒が声をかけてきた。
茶色かかった髪の毛を揺らし、うかがうような目をこちらに向けている。
「なんだ」
教科書とノートを鞄に入れ、帰ろうとした時だった。
放課後に躑躅から連絡がくると分かっていたから、ホームルームが終わったらすぐに帰ろうとしたのだが。
「あのさ、日曜日、ひまかな?」
「なぜだ」
「えっと……みんなで、遊びに行こうって話になって」
「悪いが、忙しいんだ」
鞄を肩にかけ、女子生徒の横を通り過ぎようとしたとき、腕を掴まれた。
「……なんだ」
「じゃあ、次の日曜日は?」
「忙しい。……悪いが、急いでいる」
「躑躅のところに行くの?」
腕をつかまれたまま、夜凪は眉を寄せる。
不快感が、かすかにうまれた。
「関係ないだろ」
「躑躅のこと、好きなの?」
「……それこそ、あんたに関係ない」
腕をふりはらい、教室を出る。掴まれていた腕のあたりが、やはり不快だった。
スマートフォンをコートのポケットに入れ、早足で歩く。
ただの女子生徒ひとりに触れられたくらいで、なぜこんなにも不快になるのか分からない。
戦っていないきれいな手だからだろうか。
学校の正門を出て、まっすぐアパートに戻る。
そのあいだ、無意識にスマートフォンを触れていたが、躑躅からの連絡はなかった。
百代が置いてある自室に入り、古くなった椅子にすわる。
ぎし、と、木の軋む音がきこえた。
机の上に、スマートフォンを置く。
暗い液晶画面は、無意味に天井を映している。
目を伏せた。
話しかけてきた女子生徒の声が、ふいによみがえる。
躑躅のことが好きなのか、と。




