18
「ぇ……」
「そのままお前に還る。人を呪わば穴二つ。今後は、よく考えることだ」
拾い上げた本を、ふたたび少女の足元にほうり投げ、もう興味がないとでもいうように、背を向けた。
躑躅がなかば呆然と見ていたことを知っていたのか、夜凪は彼女の目の前で足を止める。
「行くぞ」
「ちょ、ちょっと……!」
今度は躑躅の手首をつかみ、そのまま歩き出す。
憎しみに満ちた目が背中をつきささるが、いつものことだ、気にすることもないが。
ビルを出てから、だいぶ歩いた。
辺りを見ると、もう躑躅の家の近くだ。
街灯がなければ、足元もあやういほどの暗闇。
ようやく手を放した夜凪は、じっとこちらを見下ろしている。
「なに、あの子のこと、知ってたの」
「いや」
「じゃあ、どうして」
「あの本に、見覚えがあっただけだ。違ったら、謝るつもりだったが。その必要はなかったようだ」
「……ああ、そう……。カマかけただけなのね」
「ああ」
ああ、って。
躑躅が額に手を当てるが、夜凪は悪気があってそうしたわけではないのだろう。
「あの子、あなたのことが好きだって言っていたわ」
「そうみたいだな」
「かわいかったのに。もったいないことをしたんじゃない」
「俺が大事なのは――」
「ああ、そうだったわね。名前も顔も私は知らないけど、女の子の命だった」
呆れたように、芝居じみたしぐさで手をふる。
「でも、大事なのは命であって、心じゃないのね。命も心も、同じくらい大切だと思うんだけど」
命だけ守ったって、夜凪にとって何の利益があるのだろう。
夜凪を見ると、目を軽く見開いていた。
「……なに?」
「いや……、もっともだ、と思った」
夜凪は口もとに手をあて、なにかに感づいたように、軽くうなずく。
なにか、思うことでもあるのだろうか。
まあ――躑躅にとっては、どうでもいいのだろうけれど。
「じゃあ、私の家、この辺りだから。今日はどうもありがとう。また明日」
「――ああ」
家があるほうへ体を向けると、10メートルほど先に、錦秋が歩いてくる姿を見た。
彼もこちらに気づいたのか、両手にエコバックを持った手を、軽く振ってみせた。
「夜凪くんじゃないか。躑躅も。こんなところでどうしたんだ」
「送ってくれたのよ。ここまで」
悪魔だのなんだの、説明するのが面倒なので、そういうことにしておいた。
夜凪はなにか言いたそうにしていたが、とうとう何も言うことはなく。
そのかわりに、錦秋が「ああ、そうだ」と、ほほえんだ。
「せっかくだ。夜凪くん、夕飯を食べていかないか?」
「……いえ、俺は」
「ほら、見てくれ。白菜。安かったんだ。二玉も買ってしまったよ。まだ寒いから、鍋にしようと思ったんだ。でも、二人鍋って寂しいだろう。だから、きみも一緒に食べてくれたらうれしいんだけど」
「いいんじゃない、べつに。お兄ちゃんがそういうなら」
なかば強引に、夜天光の家に招き入れられた夜凪は、玄関の前でそっと目礼した。
きょうだいの両親が殺された場所。
そして、夜凪の父親が罪を犯した場所。
「おじゃまします」
玄関先で立ちっぱなしにしていても、躑躅にあやしまれるので、靴を脱ぎ、居間に入る。
あたたかい、と思った。
ストーブもなにもたいてはいないが、ただ、あたたかい、と。
今にはこたつ、木の棚、電話と大量のぬいぐるみがある。
それほど広くはない居間だから、さみしい風景とは言えない。
「待ってて。鍋、作るから」
「俺も手伝いますか」
「大丈夫。お客さんは座っててよ」
片膝をついて立ち上がろうとした夜凪を、スーツにエプロンをつけた錦秋が、台所から顔を出し、それを制した。
躑躅はいつもどおり、こたつに入って机に片肘をつき、ぼうっとしている。
客人がいる手前、テレビをつけることははばかれた。
「お兄ちゃんのお鍋、おいしいから。期待してていいわよ」
「ああ」
「ねえ、斑鳩くんって独りぐらしなんでしょ。料理はするの」
「まあ、……それなりに」
「ふうん」
「おまえは?」
藍色のてぬぐいからのぞく、目。
鋭さはあるが、剣呑なものではない。
「私? あー、私は家事、からっきしなのよ。ごはんも、洗濯も、掃除も、お兄ちゃんがやってくれてる。あ、でも食器洗いくらいはするけどね」
「そうか」
「せめて洗濯とか掃除くらい、上手にできればいいんだけど。私、日霊の仕事以外あんまり得意じゃないみたい」
肩をすくめてみせる様子をみると、彼女は日霊が天職だと思っているのだろう。
「もし、日霊をやめてもいい、と言われたら、おまえはどうする」
「そんなの、決まっているじゃない。やめないわよ。辞めろっていうんじゃないんだから」
だって。
私には、それしかないから。
そう、言っていた。
「何度も言っているわ。私には、それしかない」
「そう、だったな」
「……べつにね、それだけってわけじゃないとおもうのよ。私にも好きな食べ物だってあるし」
「なんだ?」
「肉」
「……そうか」
「な、なによ。女の子全員が甘いものが好きだなんて、そんな幻想、抱いてるわけじゃないでしょ」
「そうは思っていない。甘いものが好きな男だっているだろう」
たしかにそうね、と。
上機嫌に笑った躑躅は、こたつの上に前のめりになって、あのね、と再びことばを紡ぐ。
「知りたいことがあるの」
「答えられる限りは、答える」
「あなたが大切なのは、心? それとも、命?」
(自分は、自分として――。)
躑躅は、誰の、とは言わなかった。
分からなくなっていた。夜凪自身も。
命があれば、何とかなると、思っていた。
だが。
だが、心は?
「分からない」
素直に、そう答えた。
どちらもなければ、きっと「ヒト」ではない。
その答えに躑躅は満足したのか、両肘をこたつについて、わずかに笑った。
「そうね。答えなんて、でないわよね」
だって私たちは今、心も命も、ここにあるから。
「出てたらきっと……人間は捨ててるわ」
独り言のように呟いた言葉を、夜凪はただ、聞き流すことしかできなかった。
人間はそれを捨てて、アラミタマを生み出すこともなかっただろう。
けれどそれは、生きているといえるだろうか。
「おーい躑躅。ちょっと、手伝ってくれ」
「はぁい」
こたつから這い出た躑躅は、セーラー服をひるがえして台所へ入ってゆく。




