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「大切よ。年齢は重ねることができるけれど、巻き戻すことはできないの。後悔しても、もう遅い。ただただ、贖罪のために生きて戦っても、それは生きているとは言えない。そういうのは、大人に任せていればいいの。あなたや躑躅ちゃんはまだ、生きる意味を考えなければいけない時よ。考えることを放棄したモノは、人間とは言えないもの」
遊糸はただ、母親のように夜凪を諭す。
もしも、母親というものが夜凪にいたのなら、こういう女性なのだろうか、と。
思う。
夜凪の母親は、もう生きてはいない。夜凪を産んで、しばらくのちに死んだ。
写真も、遺影もない。
だから。
どんな顔をしていたのかも、どんな声をしていたのかも、どんな性格をしていたのかもわからない。
両親の4人の祖父母も、もうあまり覚えていない。
ただ、優しくなかった人間だと。それだけ覚えている。
もっとも、生きているのかいないのかも分からないが。
「大丈夫。私たち大人があなたたちを守ること。それが普通のことなのだから」
「普通……」
「でもね、そう――ままならないこともある。だから、あなたはあなたの生きる意味を見つけて。そして、彼女の手を放そうとしないでね。あなたたちは、決して不幸になってはいけない子よ」
死、というモノよりも。
失望、絶望というモノよりも。
その手、を。
この心を。
離さないでいられることが――ゆるされるのだろうか。
「赦すとか、赦さないとか、そういったものを躑躅ちゃんはあなたに求めていないわ。それを知っても知らなくても。だって、――あなただって。分かっているでしょう? あの娘は、そういう娘だって」
「……堂元さん、俺は」
(俺は。)
(もう、背負うことに、疲れていたのかもしれない。)
(すでにいない人間の罪を。贖罪を。背負って、何になるというのだろうか。)
(俺は、父親の亡霊にとりつかれていたのではないか。)
(俺は、俺として生きていなかったのではないか。)
(その生に、なんの意味があるというのか。)
(躑躅とて。戦うことで、おのれの存在を証明しているじゃないか。)
(それなのに、俺は。なんのために――。)
「俺は、たぶん生きたい、と。思っています」
「……そうね。それが一番、いいと思うわ」
もし辛ければ、苦しければ、日霊をやめたって、いい。
遊糸はそう言った。
それは逃げることではない、とも。
やめたい、とか。やめたくない、とか。
そういったことを思ったことなどない。
そういうものだと思っていたからだ。
日霊の適性があった、から。
ただ、それだけのこと。
ノックの音で、我にかえる。
「どうぞ」
部屋に入ってきたのは、躑躅とウイスタリアだった。
「どう?」
「嫌な視線のようなものは、消えました」
「そう、よかった。ありがとう。ウイスタリア」
「いーえ。あんなの、子供だましみたいなものですよ」
肩透かしをくらったような表情をしたウイスタリアは、躑躅に向き直った。
「躑躅、本当に、もう何ともない? 大丈夫?」
「大丈夫よ。あなたがそう言ったんでしょ。もう大丈夫って」
「そうだけど……。また、なにか嫌な感じがしたら、電話して。すぐ行くから」
「はいはい。あ、斑鳩くん。ありがとう。つきあってくれて」
「いや、べつに」
とってつけたような物言いにも、夜凪は気になどしていないようだった。
躑躅も、先ほどよりはずいぶん落ち着いているようだ。
「躑躅ちゃん、夜凪くん。あなたたちはもう帰ったほうがいいわ。今夜、あなたたちの学校に日霊を送るから。心配しないで」
「分かりました。よろしくお願いします」
頭をかるく下げた夜凪は、そのまま部屋を出ていこうと躑躅を横切る。
躑躅も、そのあとを追うように、遊糸へ頭をさげてから、部屋を出た。
すこし冷えた廊下を歩き、やがてエントランスに出る。
「斑鳩くん」
「なんだ?」
「心当たりはある?」
ビルの前に、立っているひとりの少女。
制服からして、躑躅たちが通っている高校の生徒だろう。
影から、こちらをちらちらと見ている。
「さあ、知らねぇな」
「そう」
そうだろうと思った、と。
躑躅は呟き、その生徒の視線から逃げるようにビルを出た。
そして、夜凪も続いて出ようとしたとき――か細い声が聞こえた。
「斑鳩くん」
女の子らしい、あまい声。
躑躅の、あまりよく磨かれていないローファーが、ことりと音を立てた。
どうして、立ち止まるんだろう。
どうして。
「私、」
黒い、長い髪が風に揺れる。
視線は、感じなかった。
ただ。
靴音が、聞こえない。
「私、斑鳩くんのことが」
振り向く勇気すらなく、ただ躑躅は呆然と立ち尽くしている。
今まさに告白をしようとしている少女に、心のなかでさえ激励をおくることもできずに。
「好き、です」
勇気を振り絞ったのだろう。
その声は風に掻き消えそうなほど、弱弱しかった。
そう。
まるで、「女の子」のような。
それこそが、「女の子」であるような。
だれもが、そう思うでしょう。
だれもが、そうであるべきだと思うでしょう。
だって。
だって、そう思うひまなんか、なかったんだもの。
しかたない、じゃない。
「悪いが」
湖のように凪いだような声で、夜凪は言う。
「そういうつもりは、ない」
「どうして……」
「どうして? 気づかないとでも思ったのか」
「え」
「それはなんだ」
「きゃ……」
ぞわり、と、背筋に悪寒が走る。
思わず、振り返った。
少女の腕をとった夜凪が、落ちた本を見下ろす。
黒々とした本で、日本語ではない文字が、ぎっしりと詰められていた。
「お前、呪っただろう」
「なんのこと!」
少女の腕からすでに手を放した夜凪は、その本を拾い上げる。
表紙も黒く、ただ凹凸があった。
まるでエンボス加工でもされたかのような文字が、うっすらと分かる。
日本語でも英語でもなかったから、なにが書かれているのかは、分からないが。
「呪詛返しをしたそうだ」




